2014年12月23日火曜日

不思議博物館


生まれて初めてメイドカフェなるところをたずねた(ただし、厳密にはこれをメイドカフェといってよいのかどうかは不明)。そこは不思議博物館とよばれていた(ただし、厳密にはこれを博物館といってよいのかどうかは不明)。


そこは思いの外、山の中にあった。巨大なクマムシとか、ふしアリスをオマージュした部屋とか、ダダのお面とか、写真のとおりのパラダイスぶりである。名物らしき不思議子ちゃんとよばれる人たちもいた。









小心者の私たちは雰囲気に飲まれ、コーヒーの一杯も飲まずに帰ってきたが、お客さんはけっこうはいっていた。そういう人たちはこういう場所に集まっているのかとあらためて驚いたが、ここはある意味そういう人たちのデイケアみたいなものかもしれないと自分なりに納得した。

2014年12月20日土曜日

イオリとミカン

このごろは、なぜかよく昔の卒業生にあう。一昨日も、ヨガの先生をやっているパール・ヨリコが、知り合いの庵でミカン狩りをしないかと誘ってくれた。来週インドに行くのでその前にということで、急遽開催。


私もこのごろはいろいろ忙しくて、仕事が思うように進まず、行き詰まっていただけに、こういうお誘いはことのほかうれしい。


新宮町にある「みかみ農園」の「緑酔堂」。


いろりで炭を燃やして、鯛のあらの鍋やら鹿肉の炒め物やらぶり大根やらをつくる。手際よく料理する。食べきれないほどつくった。もっとお客さんがきたらいいのにね。


三上さんとおかあさんがやってきてご相伴に。無農薬農業のはなし。農協と補助金の話。狩猟の話。そして人生の話。


海の幸。山の幸。先日に続いて、またしてもジビエ三昧だ。


たくさん食べ物があるから誰かいないかなと、電話をしたら、最初の卒業生のザッキーが福岡からやってきた。


玄海の海で取れたてのブリを刺身にした。


ここはミカン農園


たぶん生まれて初めてのミカン狩り


福岡市からさほど遠くないのに、森と静かな自然が残っている。日が暮れるとあたりは不思議な静寂に包まれた。


なんだか、このごろの現役学生はすっかり雰囲気がかわってしまった。授業やバイトに汲々としている。仲間内では集まるけどなかなか外に興味が行かない。だから、こんなおもしろい話にさそってもだれもこない。
それならば私ももうこれからは過去に生きようかと思う。ゼミの卒業生は、それぞれなかなかかっこいい人生を歩んでいる。そういうの、いいなと思う。


2014年12月13日土曜日

未来人はやってくるか?

もしも、満州事変の発端が日本側のでっち上げだと解っていれば、あのとき世論は関東軍を支持しなかったろう。

もしも、真珠湾を奇襲する前に、5年以内に沖縄が全滅し日本のほとんどが焦土と化すことが解っていれば、あのとき世論はアメリカとの開戦を全力で止めただろう。

あとになって、あのとき歴史が動いたと解ったとしても、もうその日に遡ることはできない。


これは、よくあるSFのテーマだが、壊滅的な歴史の運命を変えるために、タイムマシンでやってくる未来人の話。

この選挙の投票をしなかったことをあとになって悔んだ人々が、20年後の日本からタイムマシンでやってきて、自分の手で投票をやり直し歴史の運命を変える。そんな物語を夢想する。

今日であればまだ、これは夢物語ではない。明日の朝、未来人はやってくるだろうか。

日本人として恥ずかしいと思っていること

わたしが参加しているSNSには韓国や中国や在日の友人がたくさんいます。そういう人が読んでいる場所で、あからさまに隣国の悪口を繰り返す人がいます。そのたびに、私は日本人として、恥ずかしい気持ちと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

そんな人は、なぜか決まり切ったように朝日新聞の悪口も繰り返します。すごく熱心に読んでいるようで、いろんな記事を紹介してくれます。このごろは沖縄や障害者にもその悪口がむかいます。どういう現象なのでしょう。とにかく、とっても気にしているみたいです。近親憎悪。同じ顔をした隣人や、ひとつ上の学生運動の世代や、身体も衰え心配な老後の自分。自分とよく似ていて、そしてコンプレックスを抱いている相手に対する嫌悪。よく似ているがゆえに、自分がそちら側の人間にされることを恐れと不安から、なおさら過剰に攻撃的になるのだとおもいます。

でもそんな分析をしたところで、この感情は論理では癒せません、その人自身が、自分の心の闇を見つめ直すような、強烈な出会いや経験をするしかないかもしれません。


だから、いちいちそういう人たちと議論はしませんが、そんな発言を毎日のように読まされて、心を痛めている私の友人たちには、時を見てきちんと伝えないといけないと思っています。「日本に住んでいる人の多くは、隣国と仲良くやりたいと思っている」ということを、私たちもまた「結果的に日本を貶めてしまう、みっともないヘイト発言をやめてほしいと思っている」ということを。マスコミや総理大臣がどんなにあおろうとも、私は友人を信じているということを。

友人も私を信じてくれているのだから。

2014年12月11日木曜日

自己複製する3Dプリンタ

ときどきこんな思考実験をする。自己複製する3Dプリンタ。作って売り出せば、大儲けまちがいなし!

パソコンの制御なしで動く自律型3Dプリンタ。内蔵されている設計データに基づいて自分自身を作ることができる。新しい3Dプリンタがどんどんできる、そしてどんどん儲かる!

つっこみどころは満載。複製に必要な資源はどこから来る?儲かるどころか、ひとつしか売れないのでは?そもそも、なんのために作るのか?

無目的な3Dプリンタ。この場合、創造主とは発明家のことだろうか。生命の営みとこの3Dプリンタの違いはなんだろうか。おなじように人間の営みってなんだろうか。たとえば資本主義に目的はあるのだろうか?

頭の中で開発中。出資者は募集してません。

2014年12月10日水曜日

私がなかなか理解できないこと

私の身の周りのほとんどの人が(たとえばフェイスブックの「友達」のほとんどが)思想信条にあまり関係なく、ふだんから発言したり望んだりしているのは、およそ以下のような日本の未来像だろう。

平和を求め、自然エネルギーの利用を進め、国内の農業や水産業の保全し、安定した正規雇用を望み、老後の安心を保証し、子孫に富を継承し、政治の健全性を確保するため情報公開を促進し、地域社会の伝統や役割を大切にし、性や出自を越えた生きるための機会の公平性を望み、近隣諸国と友好関係を築き、民主的で尊敬される国家。

しかし、多数をほこる為政者たちが現実に進めようとしているのは、真逆の日本の未来である。

戦争に傾斜し、核エネルギーの利用を進め、国内の農業や水産業を衰退させ、不安定な非正規雇用を増加させ、老後の不安をかきたて、子孫に負債を押しつけ、不都合な政治を隠蔽のため情報支配を促進し、都市部に財を集中させ、性や出自を元に経済格差の固定化をはかり、近隣諸国との緊張を高め、独裁的で傲慢な国家。


なぜ、こんな政治家ばかりが選挙で勝つのか、その理由がなかなかわからない。私の交友範囲と、彼らの支持者がかさならないからなのだろうか。

幸か不幸か、私の身の回りには持株の上昇に喜ぶ人も、円安の輸出差益で笑いが止まらない人も、軍事産業や原発利権で儲けている人もほとんどいない。

むしろ残業は増えるのに給料よりも物価が上がり、円安によって輸入資材が上がり自分たちの仕事が安売りされ、軍事費や原発事故の負担で重くのしかかる税金を汲々と払い続けている。

その一方で今の与党は、インフレと円安をすすめ、国民が一生懸命働いて得た国内貯蓄の貨幣価値を下げ、負債がたまりすぎた赤字国債をチャラにしようと目論んでいる。そして、その結果生じる貧困と不満のはけ口のために、近親憎悪の感情をかきたて、戦争の準備を着々とすすめている。

不安定な現状に耐えきれず、かえってこの破滅的な提案に乗ってしまう「友達」もいるのかもしれない。


さらに別の理由を考えてみる。たまたま生まれた時代が悪かったのだろうか。

人々の投票行動を決めているのは、政策や経済や、ましてや日本の将来などという現実や理念ではなく、もっぱら過去の怨念や世代間の葛藤を背景にした、時代の雰囲気や個人的感情なのかもしれない。(そもそも今の首相自身の政治選択がだいたいそんな感じだしね)。

たとえばそれは、
人生の終わりが見えてきたアラ70「団塊世代」の、最後の自己中心的現世志向だろうか。
無気力、無関心、無責任といわれ、いつの時代にも鬱屈し続けてきたアラ60「しらけ世代」の、政治的逆襲だろうか。
新人類と持ち上げられた後は、役に立たずさんざん馬鹿にされてきたアラ50「おたく世代」の、古き良き時代への因縁返しだろうか。
バブルに乗り遅れ結婚も就職もできなかったアラ40「ロスジェネ世代」の、破滅願望だろうか。
ノリと同調性が命のイケイケ万歳アラ30「ネトウヨ世代」の、ヤンキー的勘違いだろうか。
まあ、おとなしくて争いごとを好まないアラ20「コミュ障世代」は、政治にいよいよ関心がなく、あんまり選挙にもいかないだろうからすでに大勢に影響はない。


陰謀説も検討してみよう。やはり日本はアメリカの属国なのだろうか。たとえば、こんなふうに政治的な話を書くと、経験上、20代の「友達」はほとんど「いいね」を押さない(押すのは40代より上ばかりなり)。ある世代から下にとって、政治に対する意思表明は完全なタブーになっている。「街で見たへんな猫」や「ちょっとハッピーな昨日の私」なんて話題であればむしろ積極的に「いいね」なのにね(それと「誕生日」とかって、ある種の脅迫的洗脳だよね)。

これってはやりのポジティブシンキング?それとも不安と恐怖による抑制行動?テレビかそれともインターネットの、なにか特殊な情報によって去勢されている?影にいる電通やフェイスブックが心理操作してる?そんなこんなでサイレントマジョリティは、すでにアイドルとかネトゲの、バーチャル現実で十分に満足しているのかな?


さて私は政党政治は民主主義の鬼子だと思っている。

ファシズム的な覇権主義を目指そうとする政党も、宗教を利用した集票政党も、共産主義的な国家主義を目指そうとする政党も、これらの政治団体は決して封建時代の遺物ではなく、20世紀の民主主義の時代にになって、新しく生まれた怪物たちである。私は個人的には、そうしたどんなパーティに対しても賛同したい気持ちが起こらない。

だから、政党中心のこういう仕組みの民主主義の社会で、政治参加をするためには、毎度毎度、政党を考えず「人」に投票するしかないのである。日本の未来と、郷土を愛する観点から、できる限り時間をとり、よくよく候補者の主張と人柄を吟味して、相対的にましな人に入れる。悪い人には絶対に入れない。

しかし残念ながら、そして、ただでさえ死票が多い小選挙区制を採用している日本の国政選挙で、私が投票した「人」が当選したことはこれまでほとんどない。むしろ暴言を重ねるいわゆる有力候補者(おそらく財界の回し者か、官僚の天下りか、だれかの二世なのだろうけど)ばかりがはびこる。比例区にいたっては政党名しか入れられず、政党が並べた順番で当選者がきまる!あまりに、ひどすぎる。

それでも投票し続けるのは、すでにマゾヒスティックな快感の領域である。負け札にかけ続けるのも悪くはない。

ただひとつ、そんな私が一番残念なことは、選挙が終わるたびに、望んでもいない政策が、「選挙によって民意を得た」などと、正当化され実行しまうことである。でも、それは、「うそ」である。

のちの歴史家の検証のため、そしてまだものが言える今のうちに、はっきりいっておくが、戦前の治安維持法のような特定秘密保護法が施行され、原発の再稼働が認可され、非正規雇用と格差社会が進められた結果、このさき日本にどんな未来が待っているとしても、私は一度だってそんなものに同意した覚えはない。望んだことだってない。そんなふうに国民に責任を押しつけるのなら政治家という仕事は不要である。

2014年11月24日月曜日

色鮮やかで光るものに対する人類の普遍的な嗜好

昨日、九州国立博物館の故宮展を見に行った。すぐ目の前で20万人達成。太宰府インターをおりてから大回りせず、政庁跡の前の道を抜けていれば・・・と、激しくくやまれる。で・・展示は・・・、なんというんだろう、まあたしかにスゴイのだけど。


色鮮やかで光るものに対する人類の普遍的な嗜好性というのはよくわかった。職人たちの飽くなき探求と、権力者たちの欲望の対象についても、いやというほどよくわかる。しかし、この四海から集められた色鮮やかで光るものは、今やありふれたチープな素材のテイスト感をだしている。なぜだ。
漆や金や玉などかつての珍品財宝は、今やどこにでもあるプラスティックとステンレスとガラスで表現できる。むろん、手間や技術を考えれば全く違うものなのだけど・・・。判で押したような精巧さと、緻密さは、むしろ近代工業の得意分野だ

どっちが本物?レプリカ?わかる?

だから本当に申し訳ないけど、ついでにみた常設展の土偶や縄文土器の方がぐっと来たのである。近代がとても思いつけない質感と表現。

2014年11月21日金曜日

チリモンに夢中

こどもが、チリモンに夢中だよ。「食事中にチリモンで遊ぶのはやめなさい」とおとうさんが注意しても聞かないぞ。



「やったーあ、レアキャラ、ゲット」と喜んでいる。「なになに?」とのぞきこんだら、「ゾエアかも」って。「おお!たしかにゾエアっぽい。」


チリメンモンスター図鑑で調べてみたよ。ヘイケガニのゾエアだって。かっこいいよね。

全天空のスター★ドーム

全天空のスター★ドーム - Spherical Image - RICOH THETA

お家で『おかわり』大學丼

お客さんのリクエストに応えて、大學堂で使っているお米を販売することになったよ。


いくつかのデザインの中から選んだ確定版が下のふたつ。


クリスマスバージョンや謹賀新年バージョンも登場する予定だよ。

ちゃんちゃんこ

平尾台に行く途中でイタチがひかれていたよ。持って帰って皮をむき、明礬の液につけたよ。


うまくなめせるかな?ちゃんちゃんこを作りたいけど、これでは小さいね。

旧岩田酒店の酒蔵コンサート

先週の土曜日は、門司港の旧岩田酒店の酒蔵コンサートに行ったよ。


先週と今週がなんと500回記念公演。すごいよね。


毎週土曜日の夜7時から。かつての門司港の栄華を感じながらの贅沢な2時間。よそから来たお客さんをつれていくといつもうらやましがらられるよ。とくに海外の人とかね。ちょっと自慢したりして。


声楽家の岩田基さん。こんな方が身近にいて、こんなステキな場所で最高の音楽が聴けるというのが、北九州の底力だと思うよ。


今週末も500回記念第二弾。毎週土曜日の夜だよ。デートのシメに最高だよ。

2014年11月20日木曜日

トラウマのしっぽをふむ

北九大の本館の入口を入ってすぐ左手の壁(いわゆる「本館ロビーの掲示スペース」)は、専用のスポットライトとアルミのパネルがしつらえられ、もともと掲示板として用意されていた場所なんだ。けど、実際には長いこと放置されたまま、ほとんど活用されてこなかったよ。


数年前、ある会議の際にその場所の活用を提案したら、「入試広報課の管轄になっている」と教えられて、すぐ課長を紹介されたよ。この当時の事務局長や入試広報課長は、野研の活動や「大學堂」が北九州市立大学の地域貢献に寄与していると積極的に評価してくれて、とっても好意的だったよ。大學堂にもよく遊びに来てくれたしね。


そして「入試広報課には学生課や就職課(キャリアセンター)と違い、出入りする学生が少ないのでなかなか自前の掲示物を作るところまでは手がまわらない、協力してもらえないか」と逆に掲示作成の話を持ちかけられたんだ。これは、まだこの大学に北九州市立大学地域共生教育センターもなく、地域創生学群も本格的な活動をはじめる前の話だよ。


こちらとしても、いい話。今までも学生とともに活動成果とか、さまざまな展示をしてきたけど、こういう経験から「人に伝える」ということを実地で学ぶことができるんだからね。


学生たちとは、同じものをずっと貼りっぱなしにしない、クオリティの高い展示を心がける、楽しんで見てもらえるようなものを作る、新しい展示表現をつねに考える、などの大事な方針を立てて、おおよそ3ヶ月に1回ほどの頻度で内容を変えながら、趣向を凝らした展示をたくさん試みてきたよ(それが上のいくつかの写真たちね)。


そんな学内が少しずつおかしくなり始めたのは、新しい事務局長や総務課長が市から出向してきた、2年ほど前からかな。

ちょうど1年前。つまり昨年の10月のこと。突然、総務課長が入試広報課長といっしょに研究室にあらわれ「一週間以内に本館ロビーにある掲示をはずしてほしい」といってきたんだ。当初の理由は「なにか入試関連で貼りたい掲示物がある」ということだったけど、それに対して「隣のスペースを調整できないか」と提案すると、こんどは「大学の顔となるロビーの活用として、レイアウト的にも全体を広報用として統一したい」と、前とは別の理由を伝えてきたよ。あれれ?おかしいぞ。

 大學堂新聞

すぐに「これまでの経緯も踏まえた上で、きちんとした話し合いをしたい」とメールを返したんだけど、その返事は全くなかったよ。そして一週間後に「標記スペ−スの件ですが、先般ご連絡したとおり、本日より入試に向けた広報用として全面を使用させていただいております。・・・」という内容の素っ気ない通告文が送られてきたんだ。

実はこの総務課長とは、この直前に、学内に設置したミツバチの巣箱をめぐってトラブルがあった。耐震工事のために巣箱をすぐに移動してほしいといわれ移動させたら、こんどは学内に蜂に刺された人がでたので(当初は4人といわれた)巣箱を撤去してほしいといわれたんだ。

もし事実であれば謝罪する必要があると考え、巣箱もいったん学外に移し、具体的に名前が挙がった方ひとりひとりに、直接お会いしたよ。しかしその結果、それらの情報は、なんと全て事実無根だったと判明した。嘘の情報?どういうこと?

結局この件は、最終的にようやくその1年後(つまり今年の10月なんだけど)に、同じ総務課長から、情報はまちがっており事実が確認できないことを認める調査報告と、本人の謝罪文が書面でとどいたよ。なので、まあここではこれ以上は不問にするけど、当時はとっても一方的で高圧的なあつかいをされていたわけ。

そんなタイミングで同じ総務課長が明確な理由を示さず、突然掲示の撤去をいいだしたのね。なんか変だよね。でも、それと巣箱の件はおそらく別件と思う、いや思いたい。だって、それがプロの仕事だし、大人の対応というものだよね。

あるいは本当の問題は、掲示の内容だったのかもしれないね。そのとき掲示されていたのは「大學堂新聞」の一号。それぞれの学生たちの個人の活躍に注目してもらうために、学生たちが取り上げられた実際の新聞記事をコラージュしてつくった新聞の新聞だった。そのなかに大学(+文科省)がすすめる「グローバル人材」という言葉に対して「ローカル人間」て宮武骸骨流のウイットが入っていたんだ。(上の新聞の画像をクリックすると拡大して読めるよ)。

まるで方広寺の鐘銘事件のようないいがかり。でも、さすがに総務課長は、それが理由だとは、いわなかったよ。そんなことを表だって理由にすれば学内で大問題になることくらい解っているだろうからね。たぶんマスコミだって動くしね。かといって掲示物を強引に剥がすわけにもいかない。

そんなわけで表面上はむりやり別の理由を作って、メールでの通告を最後に、掲示物の前にパネルを置き、強引に大學堂新聞が読めないように隠蔽してしまったよ。これがそのときの写真。両脇も旗でブロックして固め、この風景ある意味、すごいよね。


今あらためてこの新聞を読んでも、この程度の内容を隠すほうがどうかしていると思うけど、百歩譲って、まあ、そういう感覚は人それぞれとしておいてもよい。バナナという言葉に、なにか課長の過去のトラウマに触れるものがあったのかもしれないね。


ここで「言論の自由」とか「思想統制」と騒ぐつもりもないけれど、せめてこの総務課長ときちんと話し合いをしたかったと思うよね。繰り返すけど、話し合いに対する先方からの返事はなかったんだ。むろん、いくら内容について議論したところで、彼も掲示物の内容が撤去の理由だとは決して認めないだろうしね。

さて、そんなこんなで一年がたった。くだんの掲示スペースは「大学の顔となるロビーの活用」といいながら、どこにでもありそうな市松模様のパネルがどかんとおかれ、だれも読まないできあいのポスターがべたべたと貼られているだけ・・・。なんだかこれでは、センスのかけらもないよね。前以上に雑然としてしまったこのスペースは、ふたたびだれからも見られない残念な場所になってしまったよ。


事務局長は二年の任期を終えつつがなく定年退職を迎え、別の人がやってきて捲土重来。入試広報課と相談し、ふたたび「大學堂新聞」の2号を作成し掲示したよ。それがつい先週のこと。これもネットで見られるようにしてあるよ。(下の画像をクリックしてね)。

 大學堂新聞

さて、こういう話を読むと「まあ、自分とは関係ないし、どこかの大学のうちわの問題なのだろう」と思う人もいるかもね。あるいは「ひとりの教員と事務員の間の感情的なトラブルだろう」なんて軽くあつかわれちゃうかな。


でも、ちがうのだ。最後にこの写真を見てほしいよ。たぶん、ほとんどの北九州市立大学の学生や教員や職員が、まだ気づいていないだろうと思う。


2年前までは「受付」となっていた掲示印が、知らない間に「許可」に変えられているよ。北九州市立大学のだれが、いつ、このアイデアを発案して、だれが決裁したのだろうね。こんな案件、教授会にはあがってこないよね。

大学だけではない、社会の硬直化や管理化は、こうやって真綿で首を絞めるように、他人事だと思って沈黙している人たちに気づかれぬよう、こっそり狡猾に進められるみたいだね。



ちなみにこの掲示印を「当局検閲印」と書いた枠内に押してもらったのは私。印を押す人やそれを見る人に、ここで起こっていることがどういう性質のものなのか知ってもらうためにわざわざ作ったよ。またしても宮武骸骨先生をオマージュして。諧謔のきいた皮肉ですむうちはいいけど、いずれ彼らの本気になったときには、そんな遊びもできなくなるね。そんなわけで、この掲示物も、またトラウマのしっぽをふんじゃうかも。

P.S.
誤解してほしくないのは、北九州市立大学全体が悪いのではないってこと。わたしのブログには北九大の教員や、職員、卒業生、同窓会の読者もたくさんいると思うので、名誉のためにも書き添えておくけど、北九大は他大学に比べても、むしろ自由でリベラルな雰囲気のある、とても良い大学だとおもうよ。だからこそ、まだこういう意見が書けるのね。

問題なのは、組織の中で自分の権限を勘違いした、たった「ひとりかふたりの人間」。全体主義や管理主義など国家がファシズムを標榜するようになると、それに便乗する形で、全ての組織の中に必ずそういう人があらわれるみたい。これは北九大だけの問題ではないのです・・・貴方の隣にもほら・・・。

そして、もう一つの問題は、無関心や事なかれ主義のうちに、知らない間に変なことが決まってしまい、やがて後戻りができなくなるということ。おかしなことを止めるためには互いの情報を共有し、それぞれの持ち場から小さな声で「NO」というしかないと思います。

この一連の事件に対しては、いつも新しい掲示を楽しみにしている職員の方や多くの教員から声をかけてもらっていたので、実際に学内で気にしている方はたくさんおりました。そんなところも、北九大はいい大学です。心ある卒業生や学生たちもいるしね。でも、かわいいミツバチが人質になっていたので、私自身は、一年間ずっと我慢をしてきました。これはそうした方々に対する現状のご報告とお返事でもあります。ありがとう、これからも小さな声で応援してね。