2015年2月22日日曜日

みつばちの大湿帯から辺野古へ(やんばる旅その9)











奥集落と歴史(やんばる旅その7)

沖縄本島の最北端の村、奥。旅も3日目、そろそろシャワーをほしくなるメンバーもいるだろうと考え、琉球大学の研修施設「奥の山荘」を借りた。山荘とあるし名前から見て森の奥のコテージ風の建物を勝手に想像していたが、農道を迷いながらたどり着いた「奥の山荘」は、あたり一面畑の広場のどまんなかにぽつんと建っていた。


きけば元中学校を再利用しているらしい。広場はかつての運動場だ。今はもう廃校になり集落には中学校はない。ここは奥集落の開拓地で、直前までいたヤンバルの森とは全く違った明るくて乾いた雰囲気だ。サトウキビ畑や茶畑が広がる。人の手でこの台地の上を切り開いていくのは、さぞかし大変なことだっただろう。そんなことを考えると同時に、複雑で多様な森の姿が一変してしまっていることにあらためて驚く。いまの畑の様子から開墾する前の森の姿を想像するのは難しい。


翌日、元区長の島田隆久さんに、集落を取り囲むように作られた猪垣を案内してもらった。島田さんは冗談めかせて万里の長城といっていたが、畑にイノシシが入らないように作られた、森と人里のバウンダリーである。じっさい険しい谷道にまで土を盛り石を積んでいく大変な作業である。


石積みは、家ごとにそれぞれの担当場所が割り当てられ、その家の経済状況によって、土を使ったり丸太を使ったり石を積んだりしながらつなげていったという。台風などで崩れたら、崩れた場所の家の責任。フリーライダーや無責任さによって、共有地の悲劇がおこらないように、共同体と個人との役割を明確にして管理をすすめる、巧みなシステムだとおもった。


奥集落は琉球王府の時代から、戦前そして戦後まで、交易の拠点としての役割を担っていた。海の向こうには与論島が見える。奄美と琉球を結ぶ主要な港で、森から切り出した材木をやんばる船が首里に運んだ。戦後はいち早く日本に復帰した鹿児島の島々との間で密貿易の拠点となる。



ほかの集落がカヤ葺きだった時代に奥にはカワラ家がならび、設置されてからすでに100年を越える奥の共同売店は、かつては商店だけではなく教育資金の援助や金融機能ももっていたという。


奥に車が通れる道路が開通したのは戦後の1953年のことである。それまでここにはある種の自治が成り立っており、奥王国とも呼ばれていたようだ。


他の地域の人たちを受け入れないほどの結束力の高い共同体がここにあった。そのかわり集落の決まり事も厳しかったようだ。島田さんは、ルールを逸脱する者には共同体独自の刑罰を課したと語る。たとえば泥棒をした者が住む家には、つぎの違反者が出るまでその旨を示す札をつけられたという。


興味深かったのは、集落の中で案内された護國神社である。護国神社とは明治期に、戦死した兵士のために建てられた招魂社に起源を持つ比較的新しい神社である。かの靖国神社も、その起源は各地の護国神社と同じ招魂社である。


そもそも御嶽信仰が厚かった沖縄には、今でも本土のような様式の神社はほとんどない。琉球王府が崇拝し今は民間信仰となった神も、天皇家が政治制度として神道が体系化される以前の、最も古い様式をいまにとどめている。


でも、なぜ奥の集落に護国神社が建てられているのだろう。


沖縄には神社らしい神社はないと書いたが、実は那覇の奥武山公園の中に沖縄護国神社がある。これも護国神社だ。日中戦争(太平洋戦争)の最中に、戦死した兵士を祀る場所として、東京の靖国神社とともに道府県ごとの護国神社を建てることが決められた。それはもともと神社がなかった樺太や台湾、朝鮮半島などのいわゆる外地までおよぶ。


こうした国策として建てられた護国神社を指定護国神社という。それあわせるかたちで、全国各地に郷社や村社を母体とした無数の護国神社が建てられた。神道施設である護国神社の役割はより正確いえば供養や弔いではない。遺族の意志とは関係なく兵士を軍神や英霊という言葉を使ってあがめ祀り、戦死を肯定的に評価し、国民の意識を戦争遂行にむけるための政策的施設である。そのため敗戦後、GHQは護国神社を軍国主義施設とみなした。このときに名称を変更したり、セメントで門柱の護国の名を埋められ、もとの郷社や村社に戻った護国神社も多い。


さて、奥集落の護国神社は、私には驚きであった。沖縄戦の前までは沖縄の各地にも、こうした護国神社がつくられていたと思うが、沖縄で今残っている護国神社はほとんどない。少なくとも私は知る範囲では沖縄護国神社以外ひとつもない。


ところで以前よりうっすらと感じていたことがある。それは悲惨な沖縄戦を経験した沖縄本島の人たちの戦争に対する意識と、直接の戦場にならなかった宮古島や与那国島などの先島の人々の意識は、同じ沖縄県の中でも少し違うのではないかということだ。


明治維新のどさくさに国を奪われ最終的に琉球処分によって日本に併合された沖縄であるが、そうした不安定なアイデンティティのなかで、明治から昭和の初めにかけて、沖縄の人々は本土以上に国粋主義的な風土を強めていたのではないかという印象をもっている。


一般的に攻撃的な排外主義や忠国などの国粋主義的な思想は、自分のアイデンティティに不安をもつ人ほど強くなりやすい。なにかのコンプレックスや自信のなさの裏返しから、既存の権威に帰属を求めるためである。自分たちは日本人なのか沖縄人なのか。今に続くそうした沖縄の複雑な県民意識の背景を考えると、沖縄戦の悲劇はより重みを増す。


中部に上陸した米軍は、日本軍が手薄な北部にはほとんど進軍しないまま那覇のある南部を攻略していった。そのため奥などの北部の地域は地上戦を経験せずにすんだ。


そうした意味で、奥集落を見下ろす高台に忠魂碑とともに残る護国神社は、戦前の琉球諸島が経験した複雑な歴史的背景を今に伝える遺産なのだとおもう。

2015年2月21日土曜日

ヘリポートと高江・暴力と非暴力(やんばる旅その8)

沖縄から戻って10日もたっていないのに、連日のように高江や辺野古で起きているひどい事件。あの日の報告を書く前に、現実の方がどんどん進行し、成り行きが気になり、つい筆が止まってしまう。


遠くにいるとなかなか解らないかもしれない。むろん沖縄に住んでいても知らないことは多いと思う。その場にいき、そこに泊まり、そこにいる人たちと話をすることで、報道や映像からはなかなか見えてこない、ふつうの人たちの日常と「あたりまえ」の思いを感じた。


高江の人たちも辺野古の人たちも、そこに集まっている人たちは、みな穏やかでとても親切な人ばかりだ。そして平和的で、心から暴力を嫌う人たちだ。報道映像はいつもセンセーショナルなシーンを好んで取り上げたがる。


今、この文章を読んでいる人にも、それぞれいろいろな主義主張はあると思うけれど、非難したり怖がったりする前に、実際に会ってみれば良いと思う。そこに泊まることもできるし、語ることもできる。恐ろしそうな事件ばかりが報道されるが、実際には長い長いあたりまえの日常がある。


基地の歴史も現状もほとんど何も知らないまま、そこにやってきたわたしたちは、いわば野次馬のようなものかもしれない。しかもこんな大変なときに・・・。でも、そんなときだからこそ自分の目で見ること、多くの人の目で目撃することも大切なのではないかと思う。


では書こう。


奥から東海岸を南に下る。冬の季節風が吹く西海岸に比べると東海岸は明るい。山もなだらかで西部よりも広々としている。そのうちのかなりの面積を米軍の北部訓練場が占めている。総面積約78.33平方キロメートル、といわれてもぴんとこない。那覇市の面積のおよそ2倍だ。

楚洲をすぎ安波のタナガーグムイ(テナガエビの滝壺)で休憩、那覇から来たメンバーと合流するため「ヤンバル学びの森」に立ち寄る、食事を終えてデッキから遙か遠くの与那覇岳の方を見ていると、おじさんが話しかけてきた。やんばるの森にとても詳しい。北部訓練場の中も歩くらしい。謎のおじさんだ。

これから高江に行くと告げると、このすぐ奥の道路沿いにもヘリパットがあると教えてくれた。北部訓練場の森の中にはすでにたくさんのヘリパットが作られている。そのヘリパットのうちの6つを高江の集落を取り囲むように移転する、これが高江のヘリパット建設問題である。高江を訪ねる前に実際のヘリパットを見ておこうと思い、車を走らせた。


「ヤンバル学びの森」からわ3分くらい北上した道沿いに、森が開かれたヘリパットがあった。中を歩くと、英語で書かれた携帯食のパッケージが捨てられていた。


ボーイスカウトたちはこの森の中でキャンプでもしているのだろうか、いやちがう、ゲリラ戦の訓練である、つまり人殺しの練習である。そして練習台のターゲットが高江の住民。まるで冗談のような話だが、まったく冗談ではない。


実際にベトナム戦争の時代には、住民にベトナム人の格好をさせ演習を行っている。かれらアメリカーにしてみれば、沖縄もベトナムも変わりはしない。そしてもちろん日本も同じだ。何を話しているのかぜんぜん言葉も通じないし、なぜこんなところに住んでいるかもわからない。ちょっと友好的な顔すれば言うことを聞く、それでだめなら脅せば、基本的になんでもOKの黄色人種の原住民だと思っているのだろう。


そこから南下するとほどなく高江につく。N1ゲートのテントでひととおりの説明を受け、夕食の買い出しに高江の共同売店にいくと、伊佐さんにあう。「前にどこかでお会いましたね」といわれた。申し訳ないことに私はすっかり忘れていたが、向こうは覚えていてくれた。5年前の2010年9月に大學堂で、高江の方々を招いて「たかたんゆんたく」をしている。その時に伊波さんは、森岡さん比嘉さんとともに三人で小倉を訪ねてくれたのだ。


辺野古と連動して高江でもいろいろな動きがあり、ゲート前の監視を続けている。私たちはテントを持っていたので、邪魔にならないようにN1ゲートの横にでもはろうと思っていたのが、「トタン家に泊まったら」といわれた。各地から高江を見にやってくる人たちが集まる家だ。結果的にはいろいろな人と話ができてその方がよかった。

おかげで、日米安保について研究するためやってきた、スウェーデン・ストックホルム大学のカーネル・マティアスさんにもあうことができた。

夜は自然発生的に宴会になり、目取真俊をよく知る人と、彼の作品「虹の鳥」について語り合うこともできた。目取真俊はとてもすきな作家であるが、「虹の鳥」はとても嫌な作品である。才能のある作家が嫌なモノについて徹底的に書くと、それがどんなに嫌なモノになるのか、そんな話をした。

アポイントも何もなく、こんな大変なときに、いきなり10人もの大人数で訪ねてきた私たちを、高江の人たちは暖かく迎えてくれた。私たちは、ほとんどなんの役にも立たないけれど、すくなくともそれぞれが考えたことを人に伝える事はできる。


夕方、爆音を立て威圧するように戦闘ヘリコプターが何度も村のまわりで低い旋回をくりかえした。見たこともないとがった機体。「かっこいい?」いいや「こわい」。それが人を殺すための道具であることを、自分に銃口を向けられたときにはじめて気づく。


恐怖の前に人は保守的になる、権力への忠誠は臆病の裏返しだ。そして、保守的な人間はそうでない人間よりも基本的に脅しや暴力に弱い。だから、恐怖や脅しで人を支配しようとする。でも、それは卑怯なやり方ではないのか?


反対をしている人はどこかからお金をもらってやっているという、うんざりするほどおきまりの中傷がある。実際にところ、これが中傷になるのかどうかすらわからない。しかし、この手の批判はとんでもなく的外れな上に、中傷だと思っている人々の美意識がどこにあるのかがわかり、言説自体が興味深い。


例えばなにかを主張するために、全国の支援者や共感する団体から、お金を集めて何が悪いのだろうか。仕事で主張してはいけない。主張するならボランティアでしなさいということだろうか。実際には反対している人には、日常生活があり、家庭があり、その地域での暮らしがある。反対は仕事ではない。こんな圧倒的に不利な状態の中で、非暴力こそを武器に決めて、異議申し立てをする村人たちに、祝島であった人たちと共通する、強さと誠実さを感じた。

そして皮肉なことに、お金をもらってやっているのは米軍や警察、海上保安庁、そして警備会社である。税金を使い、多額のお金を使って意見を押さえ込もうとしている。お金をもらって仕事で嫌がらせをする。

嫌がらせのためだけに、根拠のない裁判をくりかえし(スタッグ訴訟)、税金を無駄遣いする。これはポリティカルハラスメントだ。再び問うが、それは卑怯なやり方ではないのか?


誠実な異議申し立てに対して中傷をする人たちは、一方で卑怯なことが最も嫌いな美意識を持つ人たちでもあるはずだ。その心をもって、自分の目で、何が起きているのか、はっきりと見るとよいと思う。


翌日、昼前に高江を辞し、辺野古に向かった。拠点は浜からゲート前に移っていた。そこには国家が等身大の姿で可視化されていた。むき出しの国家が立っていた。帰りの飛行機の便がある私は、そこから北九州に戻り、学生たちは一晩、辺野古に泊まった。

ヤンバルの森・朝(やんばる旅その6)

写真をクリックして拡大すると、澄んだ水の上を泳ぐおおみずすましがみえるよ

翌朝は、ユルヂの近くの散策からはじまった。沢の淵にオキナワオオミズスマシが群れている。目が回りそうな早さだ。そして大きい。刺激するとフルーツのような甘い匂いをだす。冬とはいえあたたかな沖縄の水の中には、水生昆虫たちがうごめいている。


ゲッチョ先生が落ち葉を探りゴマガイをみつける。老眼のわたしには小さすぎて見えない。自然観察の醍醐味は、よく知っている人と一緒に歩くことだ。しかしうっかりしていて、前から気になっていた巨大ドングリのありかについて聞いておくのを忘れてしまった。残念である。また次の機会に尋ねてみよう。


藪の中をよく見ると、炭焼き窯や畑の石積みなどかつて人が住んでいた跡が残っている。ほとんどのものは朽ちたり土に埋もれてしまっているが、陶器の破片だけは腐葉土の中で白々とよく目立つ。森の生活はどんなものだったのだろう。湿気や蚊は不快ではなかっただろうか。


ソロモンやバヌアツの熱帯雨林での暮らしを思い出す。森の音を聞き、森の匂いをかぎながら、その片隅に焼き畑を焼いて暮らす人間の暮らし。そんな自然との共存と緊張関係は、すべての自然を引っぺがした上に作り上げた、単調な街での暮らしとはずいぶん違う。





林道にあがり、与那覇岳への入り口に移動して、登山道を歩き、さらにちいさな沢を遡上する。ここは奥間川の源流だ。探しものは、そろそろ出ているかもしれない冬虫夏草。沢筋を歩くのは気持ちが良い。


そしてここにも炭焼き窯の跡があった。陶片もたくさん落ちている。ヤンバルは原生林ではなくて人の手がはいった里山だったのだ。琉球王朝の交易をささえた、やんばる船は木材を首里に運んでいた。奥深い山ではあるが、人々の生活と密着した森だったのだ。


藍を発酵させていた藍壷のあと

沢の周辺を歩き、山の中でゲッチョ先生と別れる。ゲッチョ先生は那覇に戻りこれから東京へ。私たちはさらに北上し奥集落へ。


排泄物を餌に豚を飼う豚便所(フール)のあと

せっかくここまで来たのだから、もうすこし森の中を迷う時間がほしかったが、夕方までに奥にいくという約束がある。時間に追われながらのスケジュールは自然観察には向かない。あらかじめ予定を決めずに、心地よい場所をみつけ、そこにテントを張り、いたいだけいるのが私が好きなスタイルだ。しかし、今回は人も多く、それぞれの都合も気にしなければならない、それにはじめてのヤンバルで、まだいってみたい場所が残っている。先に進もう。


車に乗って大国林道をさらに北にむかう。冬のヤンバルの稜線は、葉を落とした木々の幹がまるで白骨のように続いているのが印象的だった。