2015年2月21日土曜日

旅のはじめは佐喜眞美術館(やんばる旅その1)

普天間米軍基地を飛び立つヘリの爆音が消えると、部屋の中にはふたたび静寂がもどった。丸木位里・丸木俊が描いた「沖縄戦の図」に向き合いながら、椅子に座る。目の前にいるのは、炎にまかれ逃げまどう女、妻の首にカミソリを当てる男、おばあ、おじい、こども、赤ん坊。等身大の人々の姿。
http://sakima.jp/


ゲームやマンガで残虐な殺戮シーンにすっかり慣れてしまっているイマドキの若い人々にとって、この絵はどんなふうにうつるのだろうか。気持ち悪い?見たくない?沖縄では戦争の語りは、すでに日常化していて、もうわかってる、やめてくれという気持ちなのだろうか。それとも、あまりに身近すぎて、やはり正視することができないのだろうか。

沖縄出身の学生たちがまず部屋をはなれ、ほかの学生たちも部屋をはなれ、いつのまにか私ひとりが残された。

佐喜眞道夫館長は語った。丸木夫妻は、戦争の残虐さというよりは、人間の尊厳を描いているのだと。絵の中には敵も兵隊もいない。あたりまえに日常を生きてきたふつうの人しかいない。生きている人もすでに死んでしまった人も、ひとりひとりの命の尊厳が丁寧に描かれているのだと語った。白黒の画面のなかで死に装束の着物の色彩が目に焼き付く。


佐喜眞美術館の屋上からは、70年たった今も続く戦争の姿を見ることができる。「かっこいい」戦闘機が爆音を上げて飛んでいく。しらずしらずのうちに私たちは「命」をまるでゲームのコマのひとつのように考えるようになっていないだろうか。弱い者が弱い者をしいたげる。

ひとりひとりの人間よりも国家が大切だと主張する人たちの事を思う。ひとりの人生と、国家の威信を比べてみる。国家への忠誠を誇る人も、所詮ひとりの弱い人間にすぎない。そんな暴力におびえる人々が、自分たちの正義と守るべき国家をよりどころにして、より弱いものへ暴力を容認する。この構造について考える。