2016年1月13日水曜日

北九州の成人式とマスコミの共犯

北九州の成人式を見に行った。くだんのヤンキー成人たちは会場周辺の広場に集結しているので誰でも見学可能だ。




驚くのは、ヤンキー成人たちよりも、それを取材するマスコミの数。テレビはキー局も含め全国から集まり、新聞や雑誌や、報道きどりの正体不明のネット記者、そして趣味のカメラマン集団が成人たちの間をうろうろしている。


開場の2時間以上前から、そこら中ではじまる取材合戦。目的はもちろん今や全国的に有名となったヤンキー成人。ひねくれものの人類学者の私は、この取材の様子をずっと見て回った。


誰かに見せるために派手な衣装を着ているヤンキー成人たちは、基本的にはどんな取材や撮影に対しても好意的だ。むしろ積極的に、そして割とマジメに対応している。「見た目とは逆で、実は素直でいい奴らなんで」などとアピールする。


新聞とテレビでは、インタビューの様子がずいぶん違う。新聞はノート片手に、たとえば今の政治についての意見なんて細かな話もきいている。ヤンキー成人以外の普通の成人の取材もしている。


しかしテレビは、どのインタビューを立ち聞きしても、ほとんどが同じ感じのワンパターン進行だ。そして取材相手はヤンキー成人の中でも、ほんの一部の目立つ人たちに集中していた。


「成人おめでとうございます」
『ありがとう(とかなんとか)』
「すごーいですね」
『いぇーい(とかなんとか)』
「どんな気持ちですか、成人の抱負をひとこと」
『楽しいです(とかなんとか)』
「ふだんはどんなお仕事しているんですか?学生さんですか?」
『バイトです(とかなんとか)』
「ふだんはマジメなんですね」
『はい、まあ(とかなんとか)』
「これはいつから準備?どうしてこんな格好を?」
『まあ、ともだちと相談して(とかなんとか)』
「こういう成人式ってどうですか?」
『人生最後なんで、楽しくていいと思います(とかなんとか)』
「それにしてもすごいですね、これとか目立ちますよね」
このあと、インタビュアーは、おだてにおだてて成人たちをノリノリにし、カメラの前で大騒ぎの映像をしっかり納め、次のターゲットへ。


こういう手法をテレビ局はたぶん「やらせ」とは呼ばないが、かぎりなく「やらせ」に近いように感じる。インタビュアーはあたかも若者たちに共感し、完全に同意しているような好意的態度をあからさまに見せる。人のいいヤンキー成人たちはすっかりあおられ調子に乗る。現場にいた私が見る限り、一連の北九州の成人の日報道は、マスコミとヤンキー成人の共同作業であった。


しかし実際の報道を見れば、それだけではないことはすぐにわかる。テレビも新聞も派手な成人式をひととおり紹介した後は、必ず最後に「市はそうした風潮をいかがなものかと考えている」とか「市民の中には品位に欠けるという声もある」とかいう批判をつけくわえてまとめる。マスコミはこれをバランス感覚とよんだり賛否両論と呼ぶのかもしれないが、取材の風景を見る限り、これは明らかにアンフェアである。


ヤンキー成人への取材では批判的な雰囲気はほとんどだしていない。マスコミの取材は調子にのる成人たちの片棒を担いでる。しかし乗せられた成人たちはそれが批判的な文脈で使われ、結局は自分たちのコメントが番組の中で裏切られるということを、知らされていない。もちあげるだけもちあげてはしごをはずす。彼らは共犯関係にある。もしヤンキー成人の品がないのだとすれば、それを面白がって盛り上げているマスコミの品はどうなるのだろうか。


ついでに言うと警備や警察も、ちょっとしたいさかいにも介入し、このときとばかりに酔ったヤンキー成人たちを威圧する。飲み屋であれば事情聴取レベルの民事トラブルに対し過剰に対応する。従わなければどうなるのか。この場合の何が公務あたるのか不明だが、酔っぱらって前後不覚なヤンキー成人がちょっと警察に突っかかれば、公務執行妨害でたやすく現行犯逮捕となる。成人たちの目の前で権力をアピールする絶好のチャンスである。


マスコミもまるでそんな突発的なトラブルを期待していたかのように、荒々しい声が聞こえると、にこやかなインタビューを切り上げて集まってくる。成人・マスコミ・警察は、それぞれ異なるもくろみをもってこのイベントに共犯し、巧みに相手を裏切り、それを見ている市民の味方を装うのである。こうしてこの典型的な劇場型報道が生まれる。


さて、最後にしっかり確認しておかないといけないのは、これほどの数のマスコミが集まっているにもかかわらず、「マスコミ自身がどのように取材しているのかを伝えている報道は皆無である」という点である。まるでなにかのタブーかお約束のように、マスコミどうしは互いに過剰取材の事実をないことにして全く触れない。編集された映像では巧みにアップを使い、自分の局のカメラに他局のカメラがうつりこむことすら避けようとしている。


たぶんこの北九州の成人報道は例外的なものではないだろう。いまの日本の映像メディアの体質そのものなのだろう。


遊具をヤンキー成人の手から守るガードマン

来年の社会調査実習ではメディアと報道を考えるための題材として、学生たちとともにこの共犯の現場をきちんと調査してみようと思う。できればこの記事を読む人も、カメラの向こうで起きていることについての想像力を持って、どのようにこの映像がつくられているのか、すこし考えてみて欲しい。

人類学の罠にかかったマスコミとカメラおばさん

【追記】
誤解してほしくないのだが、私は、ヤンキーのセンスはもとより内向きの仲間意識もそして短絡的な暴力性も、子どもの頃から大嫌いである。非常識とか無秩序とか批判するが、むしろ彼らは自分たちの世界の中ではきわめて秩序的で強い常識にしばられている。それも好きになれない理由のひとつだ。だから元ヤンキーが更正して善人になったなんていう美談にも辟易する。単に常識を乗り換えただけで、社会の側が、勝手に彼らを悪人や善人にしたてている。反知性的な同調体質はなにもかわらない。私の知る限り、孤高の数学者になった元ヤンは皆無である。

さらに誤解してほしくないのだが、だからといって、ヤンキー成人式がダメだとも思っていない。そういうのがある方が普遍的で健全な姿だし、祝祭の起源と社会的連帯、あるいは、霊長類のワカモノオスのディスプレーとの比較など、人類学的な興味はつきない。すでに鉄壁のガードによって、お山の滑り台が使えなくなったので、彼らも来年はお立ち台を持参するだろう。そしてこのまま行けば、早晩、山車を持ち出し、提灯を持ち出し、太鼓を持ち出して、やがてそのあたりを踊りながら練り歩くようになるだろう。そこまでいけば立派な観光資源であり伝統行事である。

マスコミの論調も、元気者の表現者である彼らに過剰な期待をするもの、彼らがおかれている閉塞的な社会現状に対するガス抜きにすぎないと冷めた目でつきはなつものなど、いろいろあるが、肯定か否定かと言えば、いまのところおおむね肯定的である。しかし何かの不祥事が起きたり見る人が飽きてしまえば、この共犯関係はいとも簡単に解消される。たとえば、夜に家の近くを散歩してみてほしい、あれほど賑やかだったイルミネーションハウスが、いつのころからか住宅地からなくなっている。

そんな日本の将来にとって本当に心配なのは、サルようにはしゃぐ成人たちの背後で静かに開場を待つ、ヒツジのようにおとなしい成人の群れのような気もするが、干支も変わり、かれらにはニュース性がないのだろう・・・。けれど会場の中では議員たちが手ぐすねを引いてまっている。