2012年12月18日火曜日

書評「ソロモンの偽証」宮部みゆき

「読書好きのあなたへ。できるだけネタバレをおさえ、読書の指針にはなっても妨げにはならないように書いたけど、あくまでもこれは私流の解釈です。あなたがどう解釈するかは、これを読んだあとで教えてほしいと思います」



「読んでみて」とゼミ生からわたされた湊かなえの「告白」は、まれにみるずさんな小説だった(気に入ってる人ごめんなさいね)。本を返すときに正直に「ひどいね」とつげたら「ほんと、ひどいよね」と同意された。本人も納得いかないから貸してくれたらしい。「なんでこんな小説が売れるんだろう」本好きの20代ゼミ生もそれが不思議でたまらないという。「映画化までされて・・・」「そういう時代なのかな?」

共感できない。登場人物のだれひとりとして現実味を感じられない。薄っぺらな人物描写と、ミステリーとしても粗雑で断定的な事実認定。作者の趣旨とは違うだろうが、ひとりの女性教師の一方的な予断からはじまる悪意のこもった復讐いや私刑(リンチ)の物語のように感じた。こんな話のどこが「爽快」なのだろうか。

「もしこの女性教師の正義が間違っていたら」そんな不安を最後までいだきながら読んだが、けっきょくその不安は少しも解消されないまま教師の正義を強引に押しつけられ物語は終わる。読後感はずっと「もやもや」だ。

きっと作者自身がこういう人で、世の中を白と黒とでしか理解できず、人間の複雑な心の動きに思いを馳せることができないのかもしれない。作者やファンには申し訳ないが、そんな結論を私とその学生は互いに確認しあった。複数の登場人物による多面的な描写のはずが、どれもがステレオタイプな思い込みの生き写し。心の理論の未成熟な作家が、がんばって人の心を空想しながら小説を書くと、まさしくこんな話ができるのかもしれない。ある意味怖い。こんな小説が支持されている今の時代も、だいぶ怖い。


宮部みゆきの「ソロモンの偽証」を読み始めたとき、ところどころのプロットがこの「告白」よく似ているので「あれ?」と感じた。学校で起きたひとりの死を扱いきれない若い教師の描写、恨みと復讐に情熱を注ぐ女性たち、これは「告白」への皮肉だろうか。でも「ソロモンの偽証」は、2002年から9年かけて連載されており、2007年に初出した「告白」よりも先に書き始められている。だからむしろ事実は逆なのかもしれない。つまり、宮部みゆきの「ソロモンの偽証」の連載の展開にいらいらした湊かなえが、「告白」を先に書いてしまったってこと?

真相はともかく、記述の厚みや立ち位置は両者で正反対だ。「ソロモンの偽証」は、最初の一連の記述でほとんどの事実関係が明らかになっているにもかかわらず、2178ページにもおよぶ長編となっている。読者に対する語りはあくまでも論理的で、伏線もわかりやすく示されている。

不明瞭なところはひとつもないが、先を読まずにはいられない。異色の実験的ミステリーである。まるで種明かしをしながら手品をするようなものだ。しかし、それでもおわりまで矛盾なく読者の期待を裏切らないのは、宮部みゆきの圧倒的な筆力のたまものだ。

さて、ではこの小説はなにを目指しているのだろう。多くのミステリーで最後に明快に解き明かされる真犯人とその犯行動機、いわゆる「謎解き」はこの小説のメインテーマではない。ならば現実の社会で、ひとつの事件がいかに手間をかけて説明されるのかを、学校の中に作られた疑似法廷という場を使って示すことなのだろうか。「たとえ事実はシンプルでも、現実とはこんなに複雑なものなのですよ」というのが、この小説を書いた作者からのメッセージなのだろうか。


実際そんな書評は多い。でも、それだけではないように感じる。私はこの小説からあらためて「裁判」いや「法廷」とは何だろうかということを考えた。

多くの事実から真実性を明らかにすることだけが「裁判」の役割ではないのではないか、さらにいえば、誰かを裁いて善悪を判断することだけが「裁判」の役割ではないのではないか、とそんなことを考えたのだ。

たしかに、実際の法廷では、被告と原告が設定され、それぞれの証人の語りと示された証拠から、どちらかが嘘をついており、どちらかが真実を語っており、正義がどこにあるのかを公正な第三者が慎重に明らかにしていく。この小説でも「ちょっとやり過ぎじゃない?」と微苦笑したくなるほどに、その手続きは厳密に踏襲されている。

私は昔から、裁判ではどうして対立する二者が原告と被告という非対称な立場に別れるのかが不思議だった。調停をめざす民事裁判ですら一旦はそういう手続きをとる。ましてや刑事裁判では事件の当事者ですらない検察側と、裁かれる被告人の立場は完全に非対称である。当事者同士の対等な議論では、真実は語れないのだろうか。そんな疑問を私はずっと持っていた。

この小説を読みながら、あらためてそのことについて考えた。それぞれ異なる思惑を抱えた複数の当事者たちは、事件が起きたあとに互いの意思を確認し理解することが非常に困難になっている。そんな状況にある当事者たちをいきなり対称的な議論の場に連れ出すことは、どんな権力をもってしても容易ではないだろう。特に、当事者たちが隠しておきたい真実を持っている場合は、自分に不利益を与えるかもしれない議論の場に参加する動機が生まれえない。

だからこそ、法廷では被告を「仮定」するのではないだろうか、被告にされる人には申し訳ないが、実は、便宜上そうしているのに過ぎないのではないか、そんなふうに現実の裁判という制度を考え直してみた。

誰かを被告に仮定し、彼が正義か悪かを問うことによってはじめて、多くの当事者たちは議論の場に参加なければならないと感じ、重い口を開く。ともすれば逃げようとするステークホルダーたちを無関心ではいられなくするための仕掛けが、この「法廷」というシステムなのではないだろうか。

そうだとすれば裁判を「真実か虚偽か、正義か悪か」という視点からだけ見るのは間違っている。白か黒かは二義的な問題だ。そうではなく「ソロモンの偽証」という長い小説の中で登場人物たちが必死におこなっているのは、いわば「関係性の修復」である。

「修復的司法」という言葉がある。どんな社会でも人間同士の葛藤や紛争がある。そしてそれを扱うための公正なシステム必要とされる。バヌアツの島嶼社会のようなちいさなコミュニティでは、裁判のあとも当事者同士がともに同じ島で生きていかなければならない。そうした社会の伝統的な裁判では、しばしば事後の関係性の修復に時間をかける。「たとえ深刻な係争であっても、当事者のこども同士が結婚するというのが理想の裁判である」あるチーフはそんな表現で島の裁判を説明した。

私たちのような近代的な社会においても、加害者と被害者の関係性を取り戻すための「修復的司法」の考え方をとり入れるべきではないかという議論がある。

「ソロモンの偽証」を読んで思ったのは、「修復的司法」は単なる理想論や制度の問題にとどまらない、むしろこれこそが裁判の本質だったのかもしれない、ということである。法律事務所に勤めた経歴をを持つ宮部みゆきは、実際の裁判を見る中で常にそれを感じていたのではないか。

だからこそ、生徒どうしを検察と被告に別れるという厳しい状況に追い詰め、学校裁判という深刻な設定を描きながらも、断罪ではなく、葛藤を選んだのである。そのためには、たとえどんなに時間がかかっても、丁寧に予断を取り除き、すべての登場人物たちが自分の役割を理解し、自分から語りはじめるまで、先を急いではならない。作者も読者も、固唾をのんでその瞬間を待ち続ける、そんなスリリングな小説に仕上がったのである。


最後に智恵と正義について書いておこう。ソロモン王が神から授かったのは「智恵」である。しかし皮肉な話だが、現実には多くの智恵や正義は害をなす。たとえば政治の世界を見ればそれはよくわかる。悪による被害者よりも正義による被害者の方が圧倒的に多い。凶悪な殺人犯が10人の人を殺す間に、正義の政治家が決定した政策で100人のホームレスが凍死する、10000人の市民が空爆される。

智恵も正義も力であるが、その力をどのように使うかを、ひとりひとりの人間は試されている。たとえ「知恵者の偽証」であったとしても・・・。

「ソロモンの偽証」を読んで、ひりひりと痛む自分自身の高校時代のことを、いとおしく思い出した。そう、私もまた追い詰められ苦しんでいた、ある「友人」に、そして学校に。

あの頃の方が今よりもずっと智恵があったように思う。社会に対して誠実だったように思う。すでに、わかりすぎるほどによくわかっていた。智恵や正義は大切だが、それだけではだめだ。あれもまたそういう時代だったからだろうか。「大人たちよ、あきらめてはいけない」宮部みゆきはまだそういっている。ありがとう。