2021年6月24日木曜日

かわいい(Kawaii)の起源

 現実の三次元世界は面から構成されているのだが、わたしたちの脳は、そこに二次元の輪郭を見てしまう。曲線美という言葉からもわかるように、ある種の輪郭はわたしたちに明確な意味を与え、特定の行動の引き金となる。たとえばこの図の輪郭は、「kawaii」という信号となり、「世話をする」という行動を引き起こす。

 子育てをするタイプの哺乳類や鳥類の脳は、庇護を必要とする幼体に対して、自然に「kawaii」と反応してしまうようにできている。この「kawaii」感情から、守ってあげたい、世話をしたいという行動が生まれる。「kawaii」記号は、異種の生物でも共通した信号が使われているため、幼体が捕食者から身を守るためにも利用されている。

 たとえば孵卵後に一定期間巣の中で成長するタイプの鳥のヒナはあまりかわいくないが、ニワトリのヒヨコのようにすぐに親について餌をとるタイプの鳥のヒナはとてもかわいい。どちらのタイプも親が世話をすることから、この信号は親に対するものというよりは、捕食者に対するものであると考えられている。

 つまり、ヒヨコを食べようとした捕食者が、かわいすぎて食べられない(つい世話をはじめてしまう)なんてことが実際に起きてしまうと言うことだ。

 下側にある目と口の位置、おでこと等しい鼻の高さ、上唇から頬のあたりの盛り上がり。このあいだみた映画「JUNKHEAD」の造形もみごとな曲線だった。絵本作家の林明子やいわさきちひろも、子どもの輪郭の特徴をとてもよくとらえているといつも思う。

 というわけで、おくられてきたおさなごの写真からわざわざ輪郭だけを切り出して、なにがこの写真の最もかわいい要素なのかという分析をはじめてしまう人類学者や生物学者というものは、かくも厄介な人種なのである。

2021年6月7日月曜日

映画「春画と日本人」をみて

  北方シネマでは、いま「春画と日本人」というドキュメンタリー映画を特別にオンデマンドで配信しています。この映画について私が書いたエッセイを、こちらに掲載します。まだ映画を見ていない人にはちょっとネタバレですが、ことさらに隠さなければならないようなネタは、あの映画にはないような気がします。すべては明確で、すべては明かなのです。

北方シネマOnLine
https://kcinema.apa-apa.net/online/

 摩訶不思議な逆風がいまもまだ吹いている。海外で絶大に評価されている春画が、なぜ日本ではすんなりと展示できないのだろうか。春画を巡る日本人の曖昧な態度はいったいどこから来るのだろうか。

 明治以降の西洋化の過程で生じた、日本人の性愛に対する奇妙に屈折した態度の正体を、この映画「春画と日本人」は、春画の展覧会を巡るさまざまな出来事やコメントから明らかにしようとしている。

 明治期の「美術界」では、春画への抑圧と入れ替わるように西洋から入ってきた裸体画(ヌード)が賛美され、美術教育に取り入れられていく。春画と裸体画の対比は、典型的な象徴として低俗な日本文化と高尚な西洋文化の対比に置き換えられる。このときつくられた西洋文化に対する日本人の屈折したコンプレックスは、150年後の今でもまだ、私たちの心を縛っているように思える。

 春画は「芸術」の対極にあるものとして、わいせつというレッテルが貼られ、犯罪として取り締まりの対象となる。しかし、その根拠はきわめて希薄で曖昧なものであった。やがて西洋の美術界が、日本の春画を高く評価しはじめると、ゆっくりと風向きは変わった。販売や出版も許され、人の目につくようになり、春画を巡る時代の雰囲気は1980年代までに、実はすでに大きく変化している。

 にもかかわらず、いや、もっと奇っ怪なことに、しかし、それからさらに40年が過ぎた今に至るまで、日本の美術界の中では、春画はまるで腫れ物のように継子扱いされ、公の場では存在を無視され続けてきたのである。

 この状況は、芸術が求める創作的な価値観とはかけはなれ、まるでまったく文化を理解できな者たちによる政治的な振る舞いのようにすら思える。しかし一見そこにはなんの政治的背景はないようにも思える。いったいなにが原因なのだろう。誰が止めているのだろう。恐れるものはもうなにもないのに不安の記憶だけが残さている。

 ただひとつの理由として思い当たるのは、そう、例の「忖度」である。森達也はその著書「放送禁止歌」の中で、根拠のない自粛や規制の構図を指摘している。春画をめぐる忖度は、放送禁止歌の自粛と、同じ構造を持っている。だれが悪いといっているのか、もはやよくわからない。

 そんななかで、大英博物館ひらかれた春画展は大成功に終わった。そして、日本での巡回展の企画が立ち上がった。里帰り展である。なんの問題もないと思われたその企画が、皮肉なことにこれまで見えないようにしていた日本の美術界の屈折した構図を、あからさまにしてしまった。

 これがこの映画の主題の一つである。日本の公立の美術館は、つぎつぎに理由もなく春画の展示を断ったのである。明確な議論することもなく。

 ここで私はもうひとつ、名古屋市長である河村たかし氏の発言が発端となり、安全上の理由から展示が中止となった「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展を思いうかべる。さまざまな別の理由を作り上げて、どんなに政治性を隠そうとしても、「忖度」は、それ自体きわめて政治的な行為なのである。

 さて、そうした「あいまいな日本の私や政治」については、この稿の最後にもういちど考えることにして、そもそも春画とはどういうものかについて、映画の内容に即しながら少し書いておきたい。

 実は私は1988年に出版された福田和彦の「艶本・魅惑の浮世絵―華麗なる官能美の世界 」を持っている。無修正の春画が一般書店で販売されたものとしては、ごく早い時期の大判の画集である。書店では中が見られないように、ページの半分は袋とじにされたまま折り込まれて販売されていた。そのころ印刷屋でバイトをしていた私は、裁断機で閉じられた部分を裁ち切り、自分用に製本した。

 あれほど隠されていたにもかかわらず、その中身はおよそ隠微なものとはほど遠く、むしろ笑いすら誘う誇張された滑稽なものだった。いずれにせよ一人でこっそり見るような代物ではないと、まず思った。実際にそれを見たがる友人とともに、面白がりながら本を開いたが、今でもこれが春画に対する正しい態度であるような気がする。

 私は当時もうひとつ、赤瀬川原平と吉野孝雄が編集し、合本として復刊されていた宮武外骨の「滑稽新聞」も持っていた。それと並べてみると江戸と明治の連続性や、日本の絵画が持つ批判の精神がよく理解できる。歴代の為政者が恐れていたのは、わいせつ性などではなく、春画に含まれているこうした毒だったに違いない。

 実際に江戸時代においても、春画は一般の浮世絵と区別されることはなく、戯作とよばれる人々の娯楽のひとつであった。『ブリタニカ国際大百科事典』には「春画は単に好色な男性のためのものではなく,多くの老若男女が愛好した。その根底には「男女和合」の精神があり,性をおおらかに肯定する気分が横溢している」とある。春画は庶民だけではなく大名にも愛好されたものであった。

 春画は別名、艶本、枕絵、笑い絵、ワ印と呼ばれている。ワ印のワは、わいせつではなく笑いのワである。やはり春画には、床をともにする男女が、面白がりながら、ふたりで笑って見入るといった、ほのぼのとした風景が似つかわしい。

 実際に結婚する女性に春画を持たせるという習慣は昭和の頃まで残っていたし、春画の展覧会での来場者も女性の方が男性よりも多かったという。男も女も性愛を楽しみ、その不思議さを面白がる。それだけではなく豊穣と繁殖の象徴として、春画はお守りのように使う。それが本来の日本の性の文化であった。

 ネットで春画の記述を調べていたら、こんなサイトを見つけた。春ール。https://shungirl.com/

 この女性は「春画にはハマりまして」という本まで出している。春画で表現されている幸せそうな男女の表情に注目し、いろいろな妄想をかき立てている。そんなエッセイを読みながら、当時もこんなふうに、まるで今のBLマンガでも読むように、女性たちが自分たちの表現として春画を楽しんだ習慣があったのではないかと私は感じた。

 さて一方で、こうした春画の一部は大名や商人によって高く取引され、ここに美術品としての浮世絵の最高技術が集約されていく。映画によると、当時の浮世絵師で春画を描かなかったものはいないという。そしてその技術は、今の彫り師でも再現できないレベルの高度なものであるという。春画が持つさまざまな制約の中で、かえって多彩な表現が花開いた。美術品としての春画の評価は、まさにこの点にある。

 明治期に海外に流出した日本の春画は、ピカソをはじめとする西洋美術にもさまざまな影響をあたえ、貴重なコレクションとして愛蔵されていった。

 性やそれに対する羞恥心を、神に対する原罪だとして抑圧するキリスト教社会。愛の宗教と自称し愛の精神性を賛美しながら、一方で身体性を伴う性の行為に関しては、いびつなまでに貶め不可視化してきた西洋文化。ルネサンス期の15世紀にヒエロニムス・ボスが描いた「快楽の園」の中で描かれた性愛のモチーフは、その後の西洋美術史から再び消えてしまう。

 20世紀に入って、そうした価値観を外部化し、人間の身体を再評価し、現代芸術へと向かわせたのは、おおらかな性を表現するプリミティブアートや日本の春画だった。戦争という文化暗黒の時代を通じて、わいせつ物というレッテルが貼られ、犯罪として取り締まられ、なんども喪失の危機を経験している。さらに皮肉なことに、日本人の性意識そのものが、キリスト教的文化背景も持たぬまま、純潔主義や精神主義そして男性原理におかされて、明治期の白人コンプレックスを抱いたまま、いびつに西洋化されていく。そう「家畜人ヤプー」の完成である。

 21世紀にはいりアート・アクティヴィズムという新しいムーブメントの潮流の中で、ジェンダーや性に対して日本の芸術界は硬直化したまま立ち後れてしまっているように感じる。いわば世界のアートの最先端の問題を示していたはずの日本の春画は、かえって見えなくされてしまったのだ。

 さて、話が近代に戻ったところで、最初に保留しておいた「あいまいな日本の私や政治」について考えてみよう。もう一度問う。春画展に躊躇し、それを自粛しようとする、私たちのメンタリティはいったいどこから来るのだろうか。

 保守を自称する人々は、性の規範に厳しいのだそうだ。しかしその実態はいかにもあやしい。彼らは性に対して独特な倫理や規範を求める一方で、どこかの政治家弁護士の発言からもわかるように、たとえば性を商品化して売買することに対しては、まるで別のもの扱いのように容認し、時には擁護すらする。しかし、性にまつわる暴力や権力性、男女の非対等性に関しては、不思議なほどに論じようとしない。貧困や社会的な格差、政治的な状況をまったく無視して、経済行為における自己決定や、無知による自己責任をたてに、一方的で差別的なままに性の商品化擁護の論を進めるのだ。

 そう、すでにお気づきの通り、あの「あいちトリエンナーレ」の事件と、この春画の映画が描いている出来事は、じつは全く同じ根っこを持つものものなのである。異性や異文化に属する人たちを、人間ではなく物として平然とあつかってしまう貧困なメンタリティ。表現の文脈をすら読むこともできず、それをただの記号としてあつかってしまう偏狭なメンタリティ。強制的に従軍させられた慰安婦たちを売春婦と貶め、それであれば許容されるのだと嘯く、性に対する歪んだメンタリティ。そうしたメンタリティと、春画の隠蔽はどこかでつながっている。

 そして近年のLGBTに対する保守の人々の言説を見ても、まったく同じことがわかる。彼らには多様な他者の存在への視点が完全に欠落している。異なる性のあり方を否定する彼らの言説には、自己中心的で一方的な見方しか示されていない。

 さて、性愛において他者の存在は不可欠である。江戸の春画には愛し合い悦ぶ二人、それどころかそれを覗く第三者。そんな絵を見ている人も加えればさらに超越的な第四者までもが存在する。ここに描かれている表現は、何一つ隠されず、おおらかに他者に開かれた性愛の姿なのである。

 曖昧な態度で自粛し隠蔽する日本の人々は、本来は個人のものであったはずの性愛に、国家や権力や制度を介入させることを潜在的に許してしまっている。LGBTであっても愛は愛である。そう、きわめて個人的な。愛し合う者たちが、それぞれ好きなように愛し合いたいという思いに介入する権力ほど、野暮なものはない。

 もちろん春画に嫌悪を感じる人もいるだろう。それは、しかたのないことである。「見ない」という選択はもちろん残さなければならない。しかしそれは「見てはならない」ということでは決してない。

 リスクを負いたくないから、不快なものをわけもなく覆い隠そうとする。正体のわからない不安や恐怖こそが、こうした忖度を生み出す。そんな恐怖をのりこえるためには、まずは別の価値観を知り、それについて相手の視点から考えることである。可能な限り偏見を持たないで自分で考えること、それを重ねていけば、たとえ偏見を払拭することができなくても、せめて自分の偏見を自覚することくらいはできるようになるだろう。まずは、それで十分だ。

 春画の展覧会は「ひとつの種をまいた」と映画で語られていた。私たちも、そこから小さな芽が出るようなディベートを、この映画を見た学生たちとおこいたい。

 そして、うちの大学には数年前に文学部が鳴り物入りでたちあげた「文化資源論」という一連の講義科目がある。北方シネマでのこの映画の上映が決まり、対談について文化史言論の担当の教員(私もその一人なのだけど)に呼びかけてみたが、どういうわけか今に至るまで沈黙が続いている。もう一度、呼びかけてみよう。

2020年6月26日金曜日

マンガと政治

進化論研究者として、何か発言をしないといけないのかもしれないが、その前にマンガ論研究者として発言したい。

マンガというメディアが、嘘や暴言を言うための定番のプラットフォームになっている風潮を深く憂う。とくに政治の世界で。


たしかに、マンガの歴史的は決して政治と無縁ではない。かの、のらくろを代表に国政を讃美するいわゆる翼賛マンガは、戦意高揚と戦争遂行に大いに利用されたし、手塚治虫のマンガには昨今のマンガでは考えられないほど政治が語られている。かつて潮出版がだしていた雑誌コミックトムは、骨太な政治的マンガを多産していたが、それらは創価学会の若手だけではなく、多くの支持を受けていた。

しかし、いまの日本で起きているこの現象は、それらとは明らかにちがう。おそらく1990年代の小林よしのり以降の比較的新しい傾向だ。

映像であれば撮影できないようなシーンを、マンガによってセンセーショナルに再現し、あたかもドキュメンタリーのように見せかける手法。あきらかに本人を特定できる描写を使いながら、本人ではないと断り、悪役然とした振る舞いや、誇張された表情によって、たくみに嘘や政治的主張を挿入する手法。

そこには「知識人」が書く文章とは違い、マンガの書き手は「庶民の代表」だから、知識がなくて当たり前だ、というような書き手側の開き直りもみられる。おそらく書き手だけではなく、マンガの読み手もその程度の知識しかないのだと思われているのだろう。このごろは行政もマンガを多用する。しかしそのマンガ表現としての粗雑な内容には、まるで文章が読めないかわいそうな人たちに向けられる、上から目線を感じる。

ここで万国のマンガ人は、怒るべきである。マンガは陳腐な為政者たちに完全になめられているのである。書き手も読み手も、文化としてのマンガのために、そうした状況を看過すべきではない。もし、ここまでされても見て見ぬ振りを続けるのであれば、もはやマンガ好きとは思わぬ。かってに鬼の話だの海賊の話だのを消費してくれ、マンガは第二芸術に堕するだろう。

そして、もしマンガは文学に劣る、あるいはマンガでは難しい政治を語ることなどできないという者がいるのならば、とりあえず『神聖喜劇』を読むがいい。大西巨人25年かけて書きおろした小説を、のぞゑのぶひさと岩田和博が10年かけてマンガ化した作品だ。どちらの作品も緊張をはらんだ優れた政治表現として成立しており、私には甲乙をつけることができない。

2020年5月28日木曜日

プレリードッグ戦略考

 今日は「引きこもり」の生存戦略的意義について書いてみよう。行動を抑制し引きこもることは、生物学的に見て必ずしも不適応な行動ではない。環境条件によっては「引きこもり」は適応的な行動となる。

 たとえば地球には夜と昼の時間があり、光が少なく視覚が使えない夜の時間に活動を低下させじっとしている生き物は多い(逆に視覚に頼らなければ夜も活動できるが)。暗いときにはむやみに動き回るよりは、じっとしてた方が捕食者につかまらず生き残る確率が高くなる。そうした夜間の行動抑制が、神経系の進化にともない、やがて睡眠という形で記憶の定着や大脳の休息に利用されるようになるのである。

 食料の少ない冬の時期に代謝を低下させて冬眠したり、種の状態で仮眠したりして、厳しい時期を乗り越えるというのも同様の引きこもり戦略である。季節性うつ病と日照時間の関連を指摘した重要な研究がある。日照時間が短くなると、うつ病傾向が高まり、その治療法として人工的に強い光を浴びるというものだ。特に北欧などの高緯度地方に生存する人類にとって、冬の間の行動抑制は、生き残るために重要だったのだろう。

 それどころか実際のいわゆる社会的引きこもりも、社会のストレスから、自分の生命をまもるための適応行動から来ている可能性がある。ストレスにさらされ続けて、死んでしまうよりは、引きこもって生きていた方がましというわけだ。そうするうちに、いつか外部の状況はかわるかもしれない。

 さて、しかしながらこの行動抑制戦略には大きな欠点がある。危険から逃れることはできるが、それだけ生きていくことはできない。生命はそもそも代謝をし活動することで存在しており、岩や石のようにじっとしているだけでは命をつなぐことができないのである。食料も必要だし、他個体に出会い子孫も残さなければならない。

 なので抑制と活動が最適な状態となるように、全体の行動のバランスがとれている必要がある。たとえばセロトニンはおだやかな安寧をあたえ、ドーパミンは欲望を刺激し活動をうながす、こうしたホルモンのバランスが崩れると、私たちはうつ病や依存症になる。


 さて、プレリードッグは乾燥した過酷な環境にすむ草食性の齧歯類である。天敵としてはコヨーテなどの大型の哺乳類や、タカがいる。穴にこもっていればそうした敵から逃れることができるが、ずっと穴の中にはいられない。乾燥した土地で、限られた草を食べて、生きていかなければならない。

 そこでプレリードッグは見張りを立て、天敵が近づくと相手に応じた合図を出し、一斉に穴に潜る。「来たら隠れる」という戦略である。いっけん弱気で臆病な戦略に思えるが、見方を変えれば非常に勇敢な行動でもある。危険をかえりみず、穴の外に出て活動するための柔軟な能力である。

 すでに気づいている人も多いと思うが、感染病の流行期における適応的な戦略として、この「来たら隠れる」というプレリードッグ戦略が有効なのではないかと私は考えている。常にふたつの行動の選択肢を残しておくというのは、決してどちらでもよいというあいまいな意味ではない。それぞれの行動は、状況に応じて適切に選択されなくてはならない。タカがいないのに隠れていても意味はないし、タカがいるのに草を食べていては自分が食べられる。

 つまり「活動するか」「引きこもるか」の機械論的な二元論ではなく、「来たら隠れる」つまり「活動しつつ抑制し、抑制しつつ活動する」という、はっきりとメリハリをつけた柔軟な状況論的戦略が、動的平衡が支配する生物の世界では非常に有効なのである。いわば、ここが天災や事故とはことなる、対生物戦略の要である。

2020年5月17日日曜日

「目指せリア100」の未来

感染リスクを減らそうチャレンジ RIR(リア)は、緊急事態宣言が解除された今週から、はたしてどんな変化が見られるだろうか。すでにこの週末には、町に人が出始めているようだ。それにつれて全体の値も上がっていくだろう。値はどこまで上がるだろうか。

https://rir.apa-apa.net/ RIRの公式ホームページ


最初にリアのアイデアを思いついたとき、多くの人が気軽に参加できるように考えてゲームにしたが、そのあとチャレンジに変えた。もちろん感染防止が目的ではあるが、同時にこれがなにかコミュニケーションの方法にならないだろうかと考えていた。

しかし、まあ実際のところ、「持ってる本の表紙」や「昔の自分の写真」を見せ合うチャレンジに夢中になる人はいても、人に会わない記録のチャレンジなんて、夢中になれる要素がなかなかみつからない。自分でやっていても、毎日ジミだなあと思う。話題にもしにくい。


なにせ目指すべき方向がいつもと逆なのだ、普段なら、そう、もしこのコロナ禍がなければ、むしろ私は「大学では、もっと日々のリアをあげていこうよ」と、新入生たちに呼びかけているはずだ。1日にだれにもあわないようなリア0なんて論外で、せめて1日10人、すなわちリア10。できれば30人くらいの人には会おうよと。

遠からぬ将来、地域の感染者が完全に0になるか、あるいは新型コロナが普通の病気になり、ふたたびコロナフリーの世界がもどってきたら、このゲームは、このまま「目指せリア100」と名前を変え、今とはちがう盛りあがりをみせるかもしれない。

とりあえず、そんなコロナの終わりが見える日まで、今しばらくの間、私もこのジミなチャレンジを続けていこうと思う。みなさんもぜひ、引き続き、ご協力をお願いします。


2020年4月27日月曜日

ソーシャル・ディスタンシング・サイクリング&ダンシング&ハンティング&ギャザリング

ソーシャル・ディスタンシング・サイクリング


&ダンシング


&ハンティング


&ギャザリング。




農耕牧畜民の定住生活が世界的なパンデミックを生んだ。
これからは狩猟採集民の遊動生活でいこう。by 野研

2020年4月16日木曜日

国の3密基準をクリアしたウイルスフリーのAOZORA1号教室



大学構内に、国の3密基準をクリアしたウイルスフリーの特別教室(AOZORA1号教室)を設置したのだが、授業の開講が延期となってしまったので、使えるようにしてそのまま置いてある。

2020年4月13日月曜日

COVID-19の繁殖戦略の裏をかく方法

寄生虫や細菌やウイルスは、宿主の行動や生活史を巧みに利用して繁殖し拡散する。

COVID-19の戦略は、人間という生物が、対面的なコミュニケーションを求めたり、集まりたがったりする性質を利用している。逆にいえば、このふたつは、このウイルスの弱点にもなる。つまりヒトの対面性と集団性への欲求を、ウイルスフリーで満たすことが、感染抑制に寄与するのである。

 ヒトは視線を合わせ、顔と顔が向かい合わせの対面状態で、コミュニケーションをとる希有な動物だ。その大きな理由は、言語を使った音声発話と、もうひとつ大事なのは、相手の表情を読むことである。

 また、オスどうしが、闘争以外の場面で対面行動をする動物はさらに珍しいが、飲食をともにすること(とくにアルコールの摂取)で、ヒトの場合はそれを実現している。

 そのさい接触はそれほど重要ではないが、マスクで顔を隠すことは、表情を使ったコミュニケーションの阻害要因となる。

 さらにもうひとつ、生業活動における協働を実現するために、ヒトは「集まって関わり合う」ことに強く依存している。他の動物に比べると凝集性が強く、集団の中にいると安心し、孤独な状態に不安を感じる傾向がある。

 というわけでこのアイデアは、「ウイルスフリーな状態で、相手の顔が見える場を提供し、対面かつ集団でのコミュニケーション(飲むことも含めて)の方法を確保することが、感染防止に有効である」という「ネット飲み会」促進の強力な根拠になるだろう。


みんなが書いているアマビエかいてみたよ


2020年4月8日水曜日

感染リスクを減らそうチャレンジ

ライールと言う名でスタートした感染リスクを減らすための行動記録のアイデアが、このたびウェブサイト上で運用し、データの集計や解析ができるようになりました。



こちらがそのRIRのリンク先です https://rir.apa-apa.net/

これを機会に新しく「RIR 感染リスクを減らそうチャレンジ」と改名し、毎日2分程度の簡単な作業で、自分の行動を数値化し感染リスクを可視化できます。

今は学生中心に進めていますが、より多様に活用したいので、ぜひ登録しデータ収集の協力をお願いします。今はβバージョンですが、運用の結果を見て公開する予定です。

このウェッブサイトでRIR参加登録すると、2週間のあいだ毎日の行動記録アンケートのリンクが届きます。その日の行動を記録して下さい。

こちらは集計データです https://rir.apa-apa.net/report.html

またこちらのサイトから、参加者全体の行動記録を見ることができます。また登録したメールアドレスをいれると自分だけの記録を確認することもできます。

すでにライールで協力いただいているかたは、アカウントを作り直し引き続き入力をよろしくおねがします。

著作制作:大介研究室 
#ライール 
#ワープ 
ver.20200408 ゲームを公開
ver.20200410 ルールを整理
ver.20200416 補足説明を追加
ver.20200419 データ依頼文を追加
ver.20200420 
補足説明を改訂
ver.20200428 ウェブサイトの運用開始

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以下は以前のライールの記事です
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感染リスクを減らすために、簡単にできるゲームを考えてみました。名前は頭文字をとってライール(RYIR)です。


【ポイントの数え方】
・2メートル以内の距離で話をしたり、接触した人の数
・人混みや、複数で密閉された空間にいた時間、15分ごとの回数

【ゲームの目的】
これを、毎日1日の終わりに思い出してカウントします。
そのポイント数を、過去1週間ぶん合算します。
それが今のあなたの週間感染危険ポイント(ワー・ポイント WIR point)になります。
このポイントを、できるだけ少なく保つことが、このゲームの目的です。

【補足説明】
※1日誰にも会わなければ0です
※話をした人と接触した人は、同じ人であれば1日ごとに1と数えます。
※通常はその日に会っている同居人の数が基数となります(3人なら3)。
※スーパーなどのレジの人との会話や接触は、1回で1と数えます。
※電車の中や人混みなどは2メートル以内に人がいるような状態であれば15分ごとの回数をカウントします。
※仕事場など密閉された空間での滞在は、会話や接触をした人の数か、15分ごとの回数のどちらか少ない方を選択します。重複して数えません。
※汚染された器物へのなどへの接触回数は、確認が困難なのでこのゲームではカウントしません。

著作制作:大介研究室 #ライール #ワープ 
ver.20200408 ゲームを公開
ver.20200410 ルールを整理
ver.20200416 補足説明を追加
ver.20200419 データ依頼文を追加
ver.20200420 
補足説明を改訂




I've created an easy game to play to Reduce Your Infection Risk. The name of the game is RYIR.

[How to count points]
-Count the number of people, you contacted or talked to within within 2 meters distance.
-Count the number of times every 15 minutes, you spent in a crowded or enclosed space with multiple people.

[Aim of the game]
Sum these numbers at the end of every day. Add those numbers for the past one week. That's your current Weekly Infection Risk point (WIR point). The aim of this game is to keep this point as few as possible.

[Supplementary explanation]
* If you don't see anyone for full day, you count 0.
* The person you talk to and the person you come in contact with are counted as one for each day if they are the same person.
* Normally, the base number is the number of people living with you the day (3 for 3 people).
* A conversation or contact with a cashier at a supermarket, etc. is counted as one at a time.
* If you are on a train or in a crowded area where there are people within 2 meters, the number of times every 15 minutes is counted.
*For stays in enclosed spaces such as workplaces, select the number of people you have conversed with or had contact with, or the number of times every 15 minutes, whichever is lower. It does not count as a duplicate.
* The number of contacts to contaminated objects is not counted in this game as it is difficult to confirm.

Copyright Daisuke Labo. #RYIR #WIRP 
ver.20200408 Publishe the game.
ver.20200410 Organize the rules
ver.20200416 Add supplementary explanation
ver.20200420 Revision the rules




2020/04/16 付けの朝日新聞、なにが「人との接触」となるか

今日の新聞に、このゲームの根拠に使えそうな、
クラスター対策班の 西浦教授のコメントが載っていたので引用します。


【データ協力のお願い】
先週からゼミ生たちとデータをとっております。それとあわせて、一般の仕事や生活をしている人が、実際にどのくらいの値なのか、今のうちから多くのデータをあつめておきたいので、よろしければ ddt.post@gmail.com あてに、皆さんの行動記録を送ってください。できれば4/8くらいから継続したもの(わかる範囲までさかのぼって下さい)をおねがいします。詳細が不明な日は、おおよそでも構いません。

おくっていただいたデータは分析のみに使い、個人が特定できる情報は公開いたしません。集計された数値結果はこのページに報告します。

メールタイトル ライールの報告
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【名前】山田太郎
【期間】4/8-4/18
41
46
52
6
5
69
70
29
99
42
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【コメント】日々の仕事や生活スタイル。特別に数値が大きかった日の理由など。かける範囲で。きづいたこと、やってみたコメントなど。★追記:今の状況ではなく、普段の生活であれば、1日のポイントがおおよそどのくらいになるのか参考のため書いて下さい。
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【このゲームをさらに有効活用するための協力のお願い】 
ポイント評価としては、わかりやすく簡単に取り組めること、曖昧なルールはできるだけさけポイントの基準を明確化できること、もちろん感染リスクをさげるために一定の効果が見込めることを、考慮してつくりました。

実際のリスクの計算よりも、自分の行動を可視化し感染リスクを自覚する効果を期待しています。そして単に自衛のためだけではなく、競い合うことで、ほかの人と比べてもらうために、ゲームとしました。

 医学的にこれで効果が期待できるかどうか、他に加えるべき行動指標があるか、ポイントの重み付けはこれでいいのか、リスクの累積は1週間で十分かなど、ぜひアドバイスを頂ければと思います。英語の表現も、適当に翻訳しているので誰かなおしてください。

この先の見通しとして、この ポイント数と実際の感染リスクと、どのくらい相関がでるかの検証、より使いやすい行動指標となるようなブラッシュアップ、(たとえば単に1回の事象を1ポイントにするのではなく、出会った相手のWIRポイントの大きさで重み付けを変えるなど工夫し)より精度をたかめる、というようなことを考えています。

また、多くのひとの匿名データを集約でき、比較できるような、アプリ化・双方公的なサイト化などで、協力して頂ける方がいれば非常に嬉しいです。将来的に、このゲームがさまざまな感染病に対して有効な、行動指標として実用できればよいと思っています。

このサイトにはご意見をもとに、検討した最新版をあげるようにします。

2020年4月2日木曜日

SDGsとは現代の免罪符である

『グリーン・ライ  エコの嘘』
この映画見に行きたい。もし新型コロナウイルスの影響で映画館がガラガラなら、今のうちに行くべきかな。悩ましい。

http://unitedpeople.jp/greenlie/

SDGsを明快に否定したグレタ・トゥンベリの発言を今でも覚えている。彼女の直感に私も完全に同意する。

私自身、矛盾しているし、容認もしている、批判は甘んじて受ける、しかし、そこに葛藤があるし、疑問があるということも知ってほしい。

なので私も生態人類学者としてきちんと発言していこう。私は、SDGsやさまざまな環境認証制度が、地球規模の環境問題の解決になるという証拠を、いまもってひとつも知らない。これだけ世間で騒がれながら、ひとつも知らないのだ。

たしかに、そうした取り組みをしている知り合いの研究者や友人は多い。しかし本当に申し訳ないが、彼らのどんな話を聞いても、私が納得できたことは一度もない。せいぜい彼らの口から聞けるのは、「そうはいってもやらないよりはまし」「実際の効果よりも人々の意識の問題だ」「ほかに良い方法があるのなら教えて欲しい」

友人たちよごめん。むろん地球環境に対する危機感は共有している。決して地球温暖化が陰謀だなんていう愚かな言説を認めるつもりはないし、このままで大丈夫だなんて少しも思っていない。むしろより強い危機感を持っているつもりだ。

すでにいろいろなところで書き、講演もしている話であるが、この問題の解決には、私たちの生活を一変するような、もっと抜本的な思想が必要だと考えている。サステイナブルではない全人類軌道修正の覚悟を背景にした。

そうした意味で、SDGsや環境認証制度は、原因を誤魔化し、問題の焦点をずらし、解決を遠のかせる、むしろ害悪だと考えている。これらの施策は、現在の経済活動をこれからもずっと(サステイナブルに)続けていきたい、企業や消費者(とくにセレブと呼ばれる富裕層)の、後ろめたさを解消させるためだけの魔法の言葉だと思っている。


その証拠に大企業や行政(やお金が欲しい大学)がこぞって飛びつき、そこには大きな利権すら生まれているではないか。まさに金がなる木、現代社会の「免罪符」そのものなのである。

2018年12月18日火曜日

「動物から人間を考える」映画と講演3本立て

年明けそうそうの北九州にて「人間と動物の関わりを考える」3本のドキュメンタリー映画と講演を、連続企画しております。それぞれ登場する動物たちは、カモとマルミミゾウとクジラ。なかなかビッグな役者たちです。

ローカルな話題からグローバルな話題まで、さまざまな動物たちとの関わりを軸に、「私たち人間がこの地球で生きること」について考えたいと思います。多くの方の参加をお待ちしております。

■カモ
『坂網猟 −人と自然の付き合い方を考える』[監督] 今井友樹
https://studio-garret.com/works/sakaamiryou
【上映と講演】2019/1/8(火)(無料) 
北九州市立大学 C-302 13:00-14:30 [講演者] 今井友樹 
※「人類学概論」特別講演 
【今井友樹】1979年岐阜県生まれ。日本映画学校(現・日本映画大学)卒。2004年に民族文化映像研究所に入所し、所長・姫田忠義に師事。2010年に同研究所を退社。2014年に劇場公開初作品・長編記録映画『鳥の道を越えて』を発表。2015年に株式会社「工房ギャレット」を設立。https://studio-garret.com/



■マルミミゾウ
『地球が壊れる前に』(2015)[主演] レオナルド・ディカプリオ
https://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/2058
【講演】2019/1/15(火)(無料) 
北九州市立大学 C-302 13:00-14:30 [講演者] 西原 智昭 
【上映】2019/1/15(火)(ワンドリンク500円) 
旦過市場大學堂 18:00-20:30 
※サイエンスカフェ「Cafepedia」特別開催 後援:NPO法人アフリカ日本協議会
【西原 智昭】1989 年から約 30 年、コンゴ共和国やガボンなどアフリカ中央部熱帯林地域にて、野生生物の研究調査、国立公園管理、熱帯林・生物多様性保全に従事。著書「コンゴ共和国 マルミミゾウとホタルの行き交う森から」。国際保全 NGO である WCSのコンゴ共和国支部・自然環境保全技術顧問。NPO 法人アフリカ日本協議会・理事。http://www.arsvi.com/w/nt10.htm



■クジラ
『「おクジラさま」ふたつの正義の物語』[監督] 佐々木 芽生
http://okujirasama.com/
http://zounoie.com/theater/?id=okujirasama
【上映】2019/1/25~1/27(金〜日)(当日1200円・学生500円)
東田シネマ 
【上映と講演】2019/2/1(金)(当日1200円・学生500円)
北方シネマ [講演者]ジェイ・アラバスター 西野 嘉憲
※北九州市立大学学長選考型研究特別講演
【ジェイ アラバスター】米国アリゾナ州出身。「おクジラさま」に出演。ジャーナリスト・元AP通信記者。非常勤教員。12歳の夏に家族旅行で初来日以来、日本に傾倒。AP通信日本支局記者として日本全国の取材をする中で太地町と出会う。町で繰り広げられるイルカ漁論争にのめり込み、2012年に太地町へ移住、アリゾナ州立大学博士課程で町と国際メディアの関係をテーマに研究のかたわら、記者としても活躍。https://www.facebook.com/alabasterjay
【西野 嘉憲】1969年大阪府生まれ。早稲田大学教育学部卒業。広告制作会社勤務を経て、フリーランスのカメラマンとして活動。2005年より石垣島在住。漁業、狩猟など、人と自然の関わりを主なテーマとする。2017年写真集『鯨と生きる』を刊行。日本写真家協会会員。http://www.yoshinori-nishino.jp



さらにもう一つ、動物をめぐる法環境の話を法学者の諸坂さんにお話しいただきます。

■動物園
【講演】2019/1/21(月)(無料)
北九州市立大学 A-101 10:40-12:10
「日本の動物(園)をとりまく法環境について」 [講演者] 諸坂 佐利
※「動物のみかた」特別講演

【諸坂 佐利】神奈川大学 准教授。東京・浅草生まれ。明治大学大学院法学研究科卒業。国立動物園をつくる会事務局。研究分野は公法学。法学の視点から見た動物に関する社会問題に触れ、生物多様性、希少種保護政策の研究、世界自然遺産登録に関連する全国各地の策定、改正にも参画。http://professor.kanagawa-u.ac.jp/law/government/prof02.html

【講演者との関連】

坂網漁は国内では、今井友樹さんが取材をした石川県加賀市と鹿児島県の種子島にだけ残っている伝統猟。種子島では北九州市立大学文学部4年生の鎌田隼人が、調査をおこない卒論を書いています。

西原智昭さんは、私の大学院時代の同期ゼミ生でもあり、熱帯林の生物多様性保全について仕事をしてきています。アフリカの話題から私たちの暮らしまで地球レベルの話をしてもらいます。

捕鯨は北九州や下関に関連が深く、今でもかつて捕鯨船で働いていた多くの方が住んでいます。私は今年の秋の太地でおこなった講演で、ジェイさんと西野さんとお会いしております。

国立動物園構想は市内の到津の森公園の岩野俊郎がすすめている事業で、諸坂佐利さんはその法的な整備に関わっています。

2017年11月25日土曜日

「野研!大学が野に出た」が刊行されました

ついに「野研!大学が野に出たーフィールドワーク教育と大學堂」の本が出ました。


九大出版です。在庫があるかぎりアマゾンでも買えます。


これまでの野研の取り組みの集大成をもとに「フィールドワーク教育とはなにか」を考えてみました。フィールドワーク教育に関して、これほど詳細にそして具体的に語られている書籍はほかにはないと思います。


研究から教育へ。組織づくりから創造へ。スキルからアートへ。これからの日本の教育のデザインを考えるための、先駆的な試みをめざしました。


そもそもこんな本が出版されること自体、おもしろいのですが、その内容も負けずとおもしろいはずです。この本を、とことんおもしろがってほしいと願っています。


新聞各紙も取り上げてくれました。

2017年8月31日 毎日新聞

2017年9月13日 読売新聞

2017年11月22日 朝日新聞


さて、野研の誕生は、この人なしでは語れません。重信幸彦さんからうれしいメッセージが届きました。書評として公開したいという申し出にお許しをいただいたので、かなり気はずかしいが以下に掲載します。


◆御無沙汰していて申し訳ありません。本日、東京理科大の葛飾金町キャンパスに講義に行って、ご著書『野研! 大学が野に出た』を拝受しました。ありがとうございます。一限目を10:20に金町で終えて、四限目15:00の芝浦工大豊洲キャンパス(金町から50分程度)の授業まで、いつもゆるゆる金町のおじいちゃんおばぁちゃんの集まる「地元喫茶店」でモーニングとランチを堪能しながら、仕事しぃしぃ時間を過ごすのですが、本日は、モーニングのみで、ランチの注文を忘れて、ひたすらご著書を読みふけり、かつ眺めふけり、なんども、写真をみながら爆笑し、これは見事にまるごと一冊「The竹川大介」だなと感服しました。

◆研究と教育を二分法で分けることの不毛を抉り、動くことと考えることと書くことが地続きの実践。いずれにしても、昨今の大学教育ばかりでなく、研究に対しても強烈なアンチテーゼ、ですね。

◆昔、畏友大月隆寛が、「まるごとの民俗学者」ということを言っていた時期があるのですが(今から四半世紀から三十年近くまえ)、久しぶりに、そのことばを思い出していました。まぁ、「まるごとの人類学者」もしくは「まるごとのフィールドワーカー」。これは、教育実践記録でもなく、研究の実践版でもなく、やっぱり竹川大介のフィールドワークの記録なのだと思います。自信を 持って、「竹川の仕事」として、提示すべし。あまたの「研究/論文」などより、はるかに跳躍力があると思う。フィールドワークというのは、本来、こうして他者を巻き込みながら、自分も他者も、何かを「わかり」ながら変わっていく過程なのだと思う。たんなる情報収集に終わってしまうフィールドワークなんざ、「けっ!!」という感じですね。

◆そして、長い試行錯誤のなかで、竹川さんがいろいろ思索を深めてきた痕が、そこここに刻まれています。たとえばフリーライダーなどは、こうした実践につきものであり、特に大学のなかにあって、単位などの大学制度とは一線を画し、「来るもの拒まず、去る者追わず」という野研の態度がぶつかる問題です。でも、竹川さんは、誰もが何かの役にたつ、と「フリーライダー」と名付けること自体を疑い、そもそもフリーライダーを生み出してしまうのは、集まり方の問題、プロジェクトのかたちの問題なのだと喝破しています。あちこちの街づくりなどの実践の現場などにも、同じような問題があるはずです。この野研の知恵は、きっとそうしたところにも説得力をもって届くだろうと思います。

◆何枚かの写真に、自分が写っていることを確認しながら、かつて北九州で、自分が、こんな「元気」の傍らに居たことを思い起し、しばし感慨にふけっていました。「グローカル」などという、どっちつかずなことを言わずに、ちゃんとグローバルに越境しながらもなお、しっかりと「ローカル人間に」と言い切る、〆のことば、大介の正面の宣言として受け止めて、200%賛同します。

◆僕は、一年に二回か三回ほど、福岡市には自治体史の仕事で出張するのですが、なかなか出張の規定が厳しく、北九州まで行けずに時間が過ぎてしまいました。「いつか大学堂に顔を出します」などという「ごかし」はやめます。いつ行けるか、わかりません。でも、そこに、これだけのエネルギーのある場所が、竹川さんを中心とし、なおかつ竹川さんを超えて存在していることに刮目しながら、ちょっと離れたところから、わくわくし続けています。

◆改めて、素敵な本を、ありがとうございました。最近、読んで元気が出る本に出合っていなかったので、とてもありがたかったです。そもそも、人文社会科学は、人の不幸は、根掘り葉掘り語るのだけど、「元気」が出る話を語ることは、不得意なのだということを思い知らされます。これはいい意味で、竹川さんに、科学者の想像力があるからなのだろうか、などと思ってもみました。

 いずれ近々、どこかでお会いできますことを。とり急ぎ御礼まで。
重信幸彦拝


さらに、この本を読んだ、とある博物館の館長と、とある大学の総長からそれぞれ丁寧なお返事をいただきました。しかも新刊本まで!篠原さん山極さんありがとうございます。

『京大式おもろい勉強法』『都市と野生の思考』
『フィールドワークの絶望と愉悦』


おふたりの本に書かれている事は、「おもろい」「共にいる」「野生とアート」「旅と余技」「人と自然」などなど、とても多くの視点が野研本に共通しています。まあ同じ人類学スクールのもとで学んできたのだから、重なる部分があるのは当然かもしれませんが、こうした指摘の中に今の教育や研究にとって、いや、この時代を生きていくために大切なことが、はっきりと示されていて力づけられます。


このごろは実践教育とかALとかいう名目で、カタカナ職業の”実務家たち”を呼んで、学生たちに社会見学のような研修活動(インターン)や奉仕活動(ボランティア)をさせるのをみかけるけれど、それで、はたして大学での教育や学びといえるのでしょうか?

学問的背景が希薄な、こうしたありきたりの社会活動の貧弱な実像(虚像)を、 これまでわたしは嫌というほど見てきました。それでも、しないよりましといわれるかもしれないけれど、むしろ学生たちの好奇心をつぶしてしまう害があるのではないかと私は思っています。仕事として指導している本人たちもどこか自信なさげです。なぜなら学問の「おもろ」さは、そんなお仕着せのプログラムの中にはないからです。


篠原さんと山極さんの本は、そういう意味でまさに目から鱗、おすすめです。とくに学生たちとどうやってフィールド出て行くのか悩んだり迷ったりしている人には共感できるところが多いと思います。
 

さて、「野研!大学が野に出た」のいろいろを数えてみました。カラー写真が653枚。文中の登場人物は総勢225人。写真にうつっている人はさらにたくさんいます。


竹川大介・木下靖子・大津留香織・今田文・重信幸彦・猪股萌子・田畑宏美・門馬一平・古藤あずさ・青柳亜紀子・大久保大助・命婦恭子・有松由衣・伊藤圭吾・井上広平・高柳亮佑・町田佳菜子・門屋裕和・梶原宏之・岩野俊郎・進麻菜美・仲村知佐子・田村慶子・藤原惠洋・矢作昌生・バックミンスター=フラー・きむらとしろうじんじん・伊東啓太郎・吉岡美紀・宮村早貴・近藤光孝・原口勇希・黒田陽子・三崎尚子・山城若菜・山田洋・重森誠仁・須藤康之・前田賤・村上英志・谷本仰・中尾一徳・張平平・長門屋よしこ・田村嘉之・南香菜子・本田真悠・濱本拓磨・カネコテツヤ・フクヤマワタル・伊計恒吉・伊谷純一郎・井上大輔・稲月正・印貢陽子・沖元絢香・岩野直子・亀井伸孝・吉田幸恵・近藤倫明・金子ユキ・原田悠貴・高坂明宏・今西錦司・坂本次郎・皿海弘樹・山口未花子・山田恵次・山本雄大・山里節子・室園優衣・漆原朗子・実近修平・篠原徹・小松良子・松井克宏・松岡怜央・松尾容子・照屋優海・植西あすみ・星子萌・盛口満・石村行・船江恒平・前田太郎・大嶋雄治・中村幸介・辻利之・田崎龍司・桃山邑・藤條虫丸・塙狼星・飯山庄之輔・布施咲子・武藤景介・末嵜陽介・木下薫・木原謙一・木野理恵・矢田俊文・纐纈あや・ナタペイ・トーナス=カボチャラダムス・バット・ミスター=ファイサル・阿津坂陽子・阿南惟正・伊藤泰信・井上克彦・井本将志・一丸英夫・稲富智子・奥野明子・岡部和慶・嘉原優子・河村雄太・岩崎蔵人・吉柳佳代子・久間直樹・宮里盛雄・宮澤京子・近藤紀代子・近藤史晴・金子有李・金城五男・金城国男・金谷美和・原田萌・古谷千佳子・後藤幸浩・工藤祐次郎・江尻圭佑・高橋明歩・高瀬靖史・黒瀬善裕・黒田末壽・佐藤克文・佐藤直子・細馬宏通・坂巻正美・坂本利春・三宅大児・山下あゆみ・山下修司・山極寿一・山口瞬太郎・山谷の玉三郎・山中さやか・山田順章・山本啓一・山本健太・山椒亭小粒・篠原正典・手嶋準一・洲澤育範・秋好裕子・秋道智彌・小出友視・小菅正夫・松永夕紀・松岡忠夫・松原緑・松田幸三・松田凡・上野敦子・上野由里代・新井真由美・新城康弘・人見五郎・水島結子・西田正規・西田利貞・青井美穂子・石神勉・石川仁・赤崎時子・赤松徹生・赤嶺淳・川原田徹・川端威士・川端慎治・前田俊彦・増永研一・村上靖治・多賀英志・大川留奈・大田勇・大平剛・竹ノ下祐二・竹川玄之介・竹内義博・中原藍・中瀬康志・中尾暢宏・長津一史・椎野若菜・堤高太郎・天下太平・田川大地・田中二郎・田中里佳・渡辺拓也・東亜紀・藤田祐幸・藤嶋嘉子・内山雅世・内藤直樹・白武佳子・白濱美南子・尾形愛・平安啓乃・平野俊衛・平良一樹・平良光男・片岡寛之・魔人幻一郎・有松由依・李仁子・鈴木克章・鈴木野歩・脇園賀子・淺枝隆・當間元・眞鍋和博・蔡謙・レオナルド=ダ=ヴィンチ

申し訳ありません。せっかく登場頂いたのに、あまりに人数が多すぎて登場したみなさま全員に献本できません。献本分はいつも本を送っていただく方とお金のない学生を優先し、さらにこれから野研にはいる学生たちにも少しだけ残しているような状況です。


お届けできない皆様ごめんなさい。でもぜひ読んでほしいな。野研の宝は人と人とのつながりです。


リストをあげながら、何人かの大事な人が抜け落ちているのに気づく。あれれ?私は?と思った皆様、さらにごめんなさい!!


というか予算の都合とシリーズの事情で、半分くらいエピソードを減らしています。私自身の研究や、学生たちの研究に関連するところはずいぶん削りました。


たくさん売れて増補新版がでることになったら、そのあたりを必ず書きます。応援ヨロシクお願いします。


2017年10月16日月曜日

敗北の思想を友人から叱られた

大学時代から敬愛している友人から手書きの手紙(メールではないのが、この友人のすごいところだ)が届き、「共謀法」の採決が強行された日に私が書いた「敗北の思想」を叱られた。8月の終わりの頃。正確に言えば、多くの人たちががんばっているのに、まだあきらめるのははやすぎると丁寧に指摘された。そして政治不信になるようなことを書き、人々の政治への意欲を減退させ、まるでこの先は他人のせいであるかのごとき文章は、それ自体無責任であると厳しくたしなめられた。

その通りだと思う。こんな友人の言葉はなによりも有難い。


共謀法が可決され、誰もが次の戦争を口にするようになり、政治が私物化され、国をしばる憲法と国民主権の民主主義がないがしろにされ、排除と差別と暴言が容認される世情になっても・・・。

それでもたぶんひとりひとりの私たちは選挙に行くしかない。

愚かな大人たちがまた戦争を始めようとしている。止めるのか止めないのか。もし止めたいのならば、その機会が失われる前に、すべての選挙区で戦争への選択を、ひとつずつ止めていくしかない。

これは、どこかの幼稚園児のように、安倍総理万歳と口をそろえ、なにがあろうと日本一番を叫ぶ人々に向けた言葉ではない。ましてや虚言をもてあそび、戦争利権をむさぼりたい死の商人たちに向けた言葉でもない。

株が上がったといっては喜び、年金生活に安住する人々も、仕事に悩み今の生活に汲々としている人々も、マスコミが連日報道するヒアリやミサイルや原発の不安におびえる人々も、もし日本の安寧を考え、子孫の繁栄を願うのであれば、少なくとも、それは戦争への道ではないはずだ。


たしかにもはや、選ぶべき政治的な可能性はきわめて限られている。しかし、その機会が完全に奪われる前に、もし状況を変える力がまだ少しでも国民の側に残されているのならば、それを身近な友人たちと語り、そのわずかな可能性にかけて、もう一つの道を自分で考えるしかない。

政治の話だからといって、ことさら沈黙し敬遠しなにか後ろめたさを持つのは、逆に為政者の思うがままだ。よくわからないのであれば、なおさら真剣に疑問をぶつければよい。スマホや車や服を選ぶときのように、政治について隣人と愉快に話せることこそが自由な社会の証拠である。無知が悪いのではないし、なにも難しいことはない。それどころか選ぶべき政治家のスペックは、きわめてシンプルで、素朴で、だからこそ重要な問いから決まるものなのだ。持って回ったような知ったかぶりや、パワーゲームのような駆け引きはまず疑うべきである。

このまま加計や森友学園などの政治の私物化を許すのか。私たちの自由を縛るための秘密保護法案や安保法制や共謀法を許すのか。経済格差をすすめ一部の金持ちが多数を支配する社会を許すのか。


許すのか、許さないのか。その先にあるものはなにか。それが戦争への道とどうつながるのか。

そんなまっとうな疑問を携えて、私たちは選挙に行くしかない。今の政治の制度の中では、それぞれが住むすべての小選挙区で、一票づつその答えを選んでいくしか解決方法はない。そう、これは人任せではなく、誰もが関わる問題である。スマホや車や服を選ぶとき以上に。およそ凡庸な私たちが、すべての選挙区で、そのなにを選ぶかで、私たちの未来が決まる。

2017年5月19日金曜日

凶暴な政治が行進する夜に

 だからこれは、もはやまったく敗北の思想で、負け犬の遠吠えといわれてもよい。もともと勇ましいことをいう人間でもないし、楽観的でもない。むしろかなり前から悲観的だった私が、それでも今もこうして政治について語っているのは、何とかしたいという気持ちよりも、結局は未来に対する言い訳にすぎないと感じている。

 せめて未来の子孫たちに、当時の(つまり今の)私は、この政治状況をまったく認めておらず、なんとか止めたいと思っていたことだけでも伝えておきたいと考え、たぶんこんなものを書いているのだ。

 私の身近な知人たちは、この竹川大介という人間が、およそ政治向きではなく、むしろ普段は無党派もいいとこで、つるんだり徒党を組んだりする人になじまず、長いものに巻かれようとする付和雷同を何より嫌い、たとえば学内政治にも派閥争いにもほとんど関心がない人間だということをよく知っている。

 実際、政治的な振る舞いや党派性は昔から苦手で、特段の思想や信条やこだわりもなく、まあ、しいていえば科学主義者であり合理主義者であり個人主義者であり自由主義者だろうか、あるいは冗談のように食と自然とアニミズムを信奉するなどという。そして集団よりは個人を、マジョリティよりはマイノリティを、党派組織よりはネットワークが大切だと考えている程度の人間である。

 基本的にはどんな組織でも、どんな権力でも、巨大化すれば必ず腐敗すると疑っており、神や宗教にも期待を寄せず、カリスマやアイドルにも無関心、しかし決して人間不信ではなく、最終的に信じるべきは、身近な人との個人的な信頼関係だと考えている。

 普段の姿勢がそんな私だけに、よくこんなふうにネット上で政治のことを書くのがかえって不思議だと、ときどき言われる。それは、どうしてなのかと尋ねられることもある。


 たいした理由はない。シンプルにお昼ごはんや、小動物や、旅行の話題と同じように、自然に政治の話ができるような社会が健全だと思っているからなのだ。政治の話だけがタブーだなんて、なんだかそういう考え自体が、まるでだれかに都合よく洗脳されているみたいで、とても気持ち悪いのだ。

 それは小学生の時だったか中学だったか、「治安維持法」という法律をはじめて学校で習った。やがて多くの人々を苦しめ死に追いやる全体主義と監視社会が大日本帝国をおおい、日中戦争から太平洋戦争へと破局に向かわせた、その最初のきっかけが治安維持法だったと習った。しかも広島と長崎に原爆が落とされるまで、日本人自身の力でその状況を止めることができなかったのだと。

 そのころの私は、どうして当時の大人たちがそんな恐ろしい状態を許し、どうして途中で止めることができなかったのか、それが本当に不思議で不思議でしかたなかった。

「人々は悪い権力者に騙されていたのだ」と説明する大人もいた。
「熱狂に浮かれて判断力を失っていたのだ」と説明する大人もいた。
「政府は報道を管制し反対する者の口をふさいだのだ」と説明する大人もいた。
「昔の人はいろいろよくわかってなかったのだ」と説明する大人もいた。

 だれの説明が正しいのか解らなかったが、とにかくまたそういう社会になったら、とても嫌だなと思っていた。

 大学に入り、民主主義が全体主義におちいるメカニズムについても考え、腐敗した権力が最も好む状態が暴力であり戦争であることも知ったが、どうすればそれを止めることができるのかを考えているうちに、現実の政治が再び一人歩きを始めた。

 今の日本の方向性は、明確に間違っており私たちの未来を危険な方向に導いている。たとえそうだとしても、きっとどうにかなるはずと考えるほど楽観的にはなれない。この日本の政治的な腐敗と劣化は、今に始まったことではなく、すくなくとも20世紀末の小渕内閣のころから一貫して進んでいる。すでにもう20年近く止められていないのだ。

 ただ今日は歴史の記憶として書いておこう。2017年5月19日組織的犯罪処罰法という名の「共謀法」の採決が強行された。自民党と公明党と日本維新の会の議員は全員それに賛成し、法案は可決された。

 権力を握り暴走する為政者とそれを支持する人々の熱狂に対して、個人の力など無力である。そのうえマスコミすら権力になびき、反対者が排除され、監視によって異論が封じられることになれば、社会は沈黙にむかい、ますます真実など見えなくなる。

 さほど遠くない未来に、私は黙ってしまうかもしれないし、黙らされてしまうかもしれない。

 選挙という「民主的」な方法で多数を握った政治家の、好き放題な横暴と虚言、それを簡単に許してしまう私たち。私は子どもの頃の「なぜ」という疑問にまだ答えられていない。ほんとうに未来の子孫たちに申し訳ない気持ちだ。そして多大の犠牲の上に70年間平和を守ってきた祖先たちにも申し訳ない気持ちなのだ。

 だからこれは、もはやまったく敗北の思想で、負け犬の遠吠えといわれてもよい。もともと勇ましいことをいう人間でもないし、楽観的でもない。むしろかなり前から悲観的だった私が、それでも今もこうして政治について語っているのは、何とかしたいという気持ちよりも、結局は未来に対する言い訳にすぎないと感じている。

 せめて未来の子孫たちに、当時の(つまり今の)私は、この政治状況をまったく認めておらず、なんとか止めたいと思っていたことだけでも伝えておきたいと考え、たぶんこんなものを書いているのだ。

2017年5月5日金曜日

ミツバチの分蜂


今年は例年になく椎の花が多い。


数年に一度こんな年がある。


みつばちの分蜂と関係があるのだろうか?


散歩から戻ると


なんとまたしても分蜂。すでに5回目。


すべて捕獲しているので「放課後みつばち倶楽部」の蜂はすでに7群


大学におききれないので、近くの民家に移動した。