2017年10月16日月曜日

敗北の思想を友人から叱られた

大学時代から敬愛している友人から手書きの手紙(メールではないのが、この友人のすごいところだ)が届き、「共謀法」の採決が強行された日に私が書いた「敗北の思想」を叱られた。8月の終わりの頃。正確に言えば、多くの人たちががんばっているのに、まだあきらめるのははやすぎると丁寧に指摘された。そして政治不信になるようなことを書き、人々の政治への意欲を減退させ、まるでこの先は他人のせいであるかのごとき文章は、それ自体無責任であると厳しくたしなめられた。

その通りだと思う。こんな友人の言葉はなによりも有難い。


共謀法が可決され、誰もが次の戦争を口にするようになり、政治が私物化され、国をしばる憲法と国民主権の民主主義がないがしろにされ、排除と差別と暴言が容認される世情になっても・・・。

それでもたぶんひとりひとりの私たちは選挙に行くしかない。

愚かな大人たちがまた戦争を始めようとしている。止めるのか止めないのか。もし止めたいのならば、その機会が失われる前に、すべての選挙区で戦争への選択を、ひとつずつ止めていくしかない。

これは、どこかの幼稚園児のように、安倍総理万歳と口をそろえ、なにがあろうと日本一番を叫ぶ人々に向けた言葉ではない。ましてや虚言をもてあそび、戦争利権をむさぼりたい死の商人たちに向けた言葉でもない。

株が上がったといっては喜び、年金生活に安住する人々も、仕事に悩み今の生活に汲々としている人々も、マスコミが連日報道するヒアリやミサイルや原発の不安におびえる人々も、もし日本の安寧を考え、子孫の繁栄を願うのであれば、少なくとも、それは戦争への道ではないはずだ。


たしかにもはや、選ぶべき政治的な可能性はきわめて限られている。しかし、その機会が完全に奪われる前に、もし状況を変える力がまだ少しでも国民の側に残されているのならば、それを身近な友人たちと語り、そのわずかな可能性にかけて、もう一つの道を自分で考えるしかない。

政治の話だからといって、ことさら沈黙し敬遠しなにか後ろめたさを持つのは、逆に為政者の思うがままだ。よくわからないのであれば、なおさら真剣に疑問をぶつければよい。スマホや車や服を選ぶときのように、政治について隣人と愉快に話せることこそが自由な社会の証拠である。無知が悪いのではないし、なにも難しいことはない。それどころか選ぶべき政治家のスペックは、きわめてシンプルで、素朴で、だからこそ重要な問いから決まるものなのだ。持って回ったような知ったかぶりや、パワーゲームのような駆け引きはまず疑うべきである。

このまま加計や森友学園などの政治の私物化を許すのか。私たちの自由を縛るための秘密保護法案や安保法制や共謀法を許すのか。経済格差をすすめ一部の金持ちが多数を支配する社会を許すのか。


許すのか、許さないのか。その先にあるものはなにか。それが戦争への道とどうつながるのか。

そんなまっとうな疑問を携えて、私たちは選挙に行くしかない。今の政治の制度の中では、それぞれが住むすべての小選挙区で、一票づつその答えを選んでいくしか解決方法はない。そう、これは人任せではなく、誰もが関わる問題である。スマホや車や服を選ぶとき以上に。およそ凡庸な私たちが、すべての選挙区で、そのなにを選ぶかで、私たちの未来が決まる。