2020年6月26日金曜日

マンガと政治

進化論研究者として、何か発言をしないといけないのかもしれないが、その前にマンガ論研究者として発言したい。

マンガというメディアが、嘘や暴言を言うための定番のプラットフォームになっている風潮を深く憂う。とくに政治の世界で。


たしかに、マンガの歴史的は決して政治と無縁ではない。かの、のらくろを代表に国政を讃美するいわゆる翼賛マンガは、戦意高揚と戦争遂行に大いに利用されたし、手塚治虫のマンガには昨今のマンガでは考えられないほど政治が語られている。かつて潮出版がだしていた雑誌コミックトムは、骨太な政治的マンガを多産していたが、それらは創価学会の若手だけではなく、多くの支持を受けていた。

しかし、いまの日本で起きているこの現象は、それらとは明らかにちがう。おそらく1990年代の小林よしのり以降の比較的新しい傾向だ。

映像であれば撮影できないようなシーンを、マンガによってセンセーショナルに再現し、あたかもドキュメンタリーのように見せかける手法。あきらかに本人を特定できる描写を使いながら、本人ではないと断り、悪役然とした振る舞いや、誇張された表情によって、たくみに嘘や政治的主張を挿入する手法。

そこには「知識人」が書く文章とは違い、マンガの書き手は「庶民の代表」だから、知識がなくて当たり前だ、というような書き手側の開き直りもみられる。おそらく書き手だけではなく、マンガの読み手もその程度の知識しかないのだと思われているのだろう。このごろは行政もマンガを多用する。しかしそのマンガ表現としての粗雑な内容には、まるで文章が読めないかわいそうな人たちに向けられる、上から目線を感じる。

ここで万国のマンガ人は、怒るべきである。マンガは陳腐な為政者たちに完全になめられているのである。書き手も読み手も、文化としてのマンガのために、そうした状況を看過すべきではない。もし、ここまでされても見て見ぬ振りを続けるのであれば、もはやマンガ好きとは思わぬ。かってに鬼の話だの海賊の話だのを消費してくれ、マンガは第二芸術に堕するだろう。

そして、もしマンガは文学に劣る、あるいはマンガでは難しい政治を語ることなどできないという者がいるのならば、とりあえず『神聖喜劇』を読むがいい。大西巨人25年かけて書きおろした小説を、のぞゑのぶひさと岩田和博が10年かけてマンガ化した作品だ。どちらの作品も緊張をはらんだ優れた政治表現として成立しており、私には甲乙をつけることができない。