2012年8月16日木曜日

鍾乳洞貯蔵古酒・蔵入れ平成11年8月16日

いまから13年前の今日。1999(平成11)年8月16日にこの話ははじまる。

その頃3年がかりで宮古島の海人の調査をしていた私は、仕事の合間に、酒造りに興味を持つ学生とともに、宮古島の酒蔵をまわっていた。


そこで出会ったのが、多良川という酒蔵。そしてその蔵元さんがはじめた、鍾乳洞貯蔵古酒という試みだった。蒸留したまま加水していない43度もある原酒を、陶器の甕に入れて鍾乳洞の中に保管しているという。

湿度が高く年間の気温が一定している隆起珊瑚礁の洞窟の中は熟成が早く、さらに甕は空気の出入りがあり、その呼吸によって原酒はとても品のよい古酒になるという。


それはすごい、ぜひとも見学したいとお願いした。

畑の中にぽっかりとあいたドリーネを、螺旋階段を伝って20メートルほど地下におりていくと、大きな横穴があいていた。


厳重に施錠されているその鍾乳洞の中に甕に詰められた原酒がねむっていた。


鍾乳洞貯蔵古酒は、オーナー制になっており、洞窟の中に安置された日にちと、メッセージ、そしてそれぞれのオーナーの名前かかれた木の札がつけられている。中には、宮古島で冬のキャンプをしていたオリックスの仰木監督やイチローの壺もあった。


綺麗に並べられた甕たちは、鍾乳洞の奥へと続き、熟成の時を待っていた。
   

それをみているうちに魔が差した。出してもらった酒に酔ったのかもしれない。なぜかそのとき、手元に10万円のお金があった。「あの、私もオーナーになれますか?」即決である。隣にいた学生が驚いた顔でこちらを見る。


「ふふふ、学生と教員はここが違うのだよ」。本当はかなり無理をしていたが、職を得てまもない私は、今までの貧乏調査の反動で、気が大きくなっていた。


ノストラダムスの予言がわずか1ヶ月前に外れ、20世紀もあと2年でおわる1999年の8月のことである。これをいつ飲むかわからないけど、そのときは、きっと21世紀になっているはずだ。「二十一世紀に飲むぞ」私は木札にそう書いた。


そうして、私の泡盛もまた宮古島の洞窟の奥深く、熟成の時を刻みはじめた。

「これで毎年、宮古島の調査のたびに少しずつ飲みにこれるぞ」と、ひそやかな楽しみができたことを喜ぶ私だったが、その年以来、宮古島での調査からはなれ、石垣島にかようことになってしまった。


そしてそのまま10年がたった。

多良川から「お酒が熟成したので送ります」との連絡があった。が、さらに3年延長した。


そして13年目の今年。

木箱に入れられ、あのときの泡盛が送られてきた。木箱をはずし、ふたを開ける。甘い香りが部屋中に広がる。

ひしゃくですくって、一口飲んでみた。


「おいしい」


それは、おどろくほど、おいしかった。

これまでさまざまな古酒を飲んだが、これほど香りが高く、これほど清らかな古酒を飲んだことがない。口に入れた瞬間に味と香りが広がり、すっと喉をとおっていく。とろりと甘くて、雑味がひとつもない。

熟成され水和がすすんだ酒精はあくまでもまろやかで、口当たりはどこまでも柔らかく、まるで水を飲んでいるようだ。


これはなんというお酒だろう。13年のうちに、真っ暗な鍾乳洞の中で信じられない化学反応が起きていた。

甘露とはこのことか。


懇意にしている小料理屋「にいな」に差し入れした。酒通のお客さんにふるまうと、みなが口々に、もっと飲みたいという。



ラベルをつくり、原価を計算して、瓶に詰めなおし2本を納品した。「多良川・鍾乳洞貯蔵古酒・蔵入れ平成11年8月16日・竹川大介」。飲みたい人は小倉南区北方の「にいな」で飲める。

2012年8月5日日曜日

七夜物語


川上弘美の「七夜物語」を一晩で一気に読んだ(ほんとうは七夜かけて読むべきだったのかも・・・)。わたしにとっては「センセイの鞄 」以来の川上弘美だ。



かつてこどもだったおとなたちと、これからおとなになるこどもたちへ。
「七夜物語」はきっとそんな人たちのためのなつかしい物語になるだろう。そして、そうではない人へのはげましの物語になるだろう。

・食べることはなによりも大切
・世界は正義と悪だけからなるわけではない
・みためが美しいものはとてもあわれだ
・「うそっこのほんとう」のはなしは、「ほんとう」のはなしである

これだけではない。物語の中では世界の成り立ちのさまざまな秘密が、暗示の形で実に正確に(!)うめこまれている。冒険のためのヒントに満ちている。今年のもっともおもしろかった本の一冊に加えておきたい。

思えば、わたしが「世界は全部うそっこのほんとうで、同時にすべてのうそっこはわたしが生きているほんとうの世界そのものなのだ」と気づいたのも、ちょうど物語の主人公たちと同じ、小学校4年生の時だった。(仄田君の「すべてシリーズ」ではなく、わたしが「ひみつシリーズ」を読んでいたころである)。

そうして「七夜物語」を読み進めながら、わたしもまた、この物語を以前に読んでいたことがあるのに気がついた。一気に読めたのはそのせいだ。確かに知っている。でもすっかり内容を忘れている。

わたしがどうやって世界の成り立ちを知ったのか、それは数年間にわたる「ほんとうの世界」との愛着と闘争の葛藤の結果だった。「七夜物語」を読んで、あころの不安でドキドキした感覚を、ひさしぶりに思い出した。そして、わたし以外にもたくさんの人が、あの世界を旅していたことを知り、とてもうれしくなった。



大学にいると、ときおり、おとなになりきれないこども、つまり、こどもになりきれなかったおとなたちに出会う。いままでも漠然となにかが違うと思っていたが、「七夜物語」を読んで、その違いががよくわかった。新型鬱もソーシャルスキルの低さも、他人の気持ちに対する関心や共感の希薄さも、すべて原因はひとつである。かれらには共通する傾向がある。

・食べることを大切にしない(食に無頓着で好き嫌いばかりする)
・世界は正義と悪だけからなると信じている
・みためが美しいものばかりを求めている
・「うそっこのほんと」のはなしは、「うそ」だと思って安心している。

彼らは乗り越えるべき冒険を、避けたり失敗した人たちなのだ。「うそがまことでまことがうそ」という、ややこしい「ほんとうの世界」の不安に、耐えられなかった人たちなのだ。だからこそ彼らは世界や他人に対して決して誠実に生きられないのだ。

もう遅いのだろうか。こどものころにしなければならなかった冒険を、もう一度やり直せば、かれらもちゃんとしたおとなになれるのだろうか。なってほしいと思う。冒険に旅立ってほしいと思う。この本には冒険のためのヒントがある。