2012年11月27日火曜日

失われし古代九州王朝への旅


「京都」と書いて「みやこ」と読む。北九州市の南に位置し、瀬戸内海に面している行橋・豊津・神田・京都の一帯には、おびただしい数の古墳が点在している。


秋の佳日に、廃寺の伽藍跡と、山の中に隠れた名もない古墳群と、朝鮮式山城をめぐる古代史の旅にでた。


案内をしてくれたわが「古墳先生」は、北部九州にはヤマト(大倭)政権に消された歴史があると熱く語る。記紀では隠蔽されてしまった中国や朝鮮半島との争いの歴史である。


山に囲まれた盆地の風景は、奈良の飛鳥あたりとよく似ている。幾たびもの動乱に翻弄され、中国や朝鮮半島から逃れてきた人々が、この地に国を建てたというのが「古墳先生」の説である。


「ヤマト政権」もその一族で、一敗地にまみれ瀬戸内海を経由して近畿に逃れたものの、かの地で力を蓄え九州に重来したというのである。


いずれにせよ磐井の乱より前の古代九州は歴史の闇に隠されている。


7世紀末から8世紀初めに建てられた椿市廃寺は、四天王寺式の立派な伽藍をもつ大寺で、百済・高句麗・新羅の三国時代の韓国と平城京の様式をもつ瓦があわせて発見されている。が、いまは当時の瓦の一部と礎石が残るのみである。


その付近の案内も看板もない山中に、無名の古墳群があった。若い頃にこの山の周辺を散策していた「古墳博士」は、この古墳群を見つけ興奮したという。小高い丘の上に20をこえる石室が口を開けている。まさに王家の墓の様相である。










椿市廃寺あたりからまっすぐに南に向かう。近くを大宰府官道が通っている。今は畑以外に何もないが、このあたりがかつての都大路だったのだろう。その先に、古代朝鮮式山城である御所ヶ谷の神籠石遺跡がある。


きわめて精巧に作られた石垣が山を取り囲むようにして続いている。迫力のある謎に満ちた遺構である。朝鮮半島に対する防衛のため造られたといわれているが、それならばなぜこんな奥地に造ったのだろうか。そもそも、この高度な技術をもった人々はだれだったのだろう。

「古墳先生」はこの地に根を下ろした半島系の政権が近畿のヤマトと対峙するためにつくったのだろうと推論する。つまり瀬戸内海に対する防衛である。たしかに、その説の方が説得力がある。


山の上からは京都郡が一望できる。「豊津」「行橋」は瀬戸内海に通じる「豊の国」の重要な港である。


一日で数世紀を体感できる駆け足の古代史の旅。北九州のすぐ近くには、失われた九州王朝の幻影が色濃いこんな場所がある。

近々、第二弾が予定されているとかや。