2017年2月20日月曜日

せつこねえさんのうた

あれ おどろいた せつこねえさんが うたっているよ
ねえさんが、いつも はなしていたことは ほんとうだったね
もう むかしみたいなことは おこらないと おもってたよ
おこるはずがないし おこってはいけないと おもってた
でもそれは わたしたちが そうおもいたかった だけだったんだね
ねえさんが いつもいつも なんじゅうねんも はなしていたことが
いよいよ まもなく ほんとうに なるのだろうか
ねえさんは それが ほんとうにならないように するために
いつもいつも わたしに はなしてくれていたのに
わたしは・・・・・・
せつこねえさんの うたは・・・・・・


今から30年前にさかのぼる数奇な出会い。
私の初めてのフィールドは石垣島の新川だった。
海人の船にのせられて漁をしていた。
船に寝泊まりし毎日休みなしで働いた。
台湾行きの船が出ているの知り休みをもらった。
若いんだからそういうのも必要だろとあやしげな応援で送り出された
その船の中でアミ族出身の女医さんに出会った。
彼女は石垣に嫁いでいた。
島に戻ったらぜひあわせたい人がいると言われた。

女医さんに紹介されたのが節子ねえさんだった。
節子ねえさんは白保の海岸の近くの小屋にひとりですんでいた。
その頃は白保の空港の問題が起きていた。
新川の海人はみんな空港に賛成だった。
私は海人に隠れて白保に通った。
4000メートル滑走路
自然保護の問題だけではなくこれは有事のための空港だと言われた。
節子ねえさんは戦後すぐに進駐軍に通訳として雇われた。
進駐軍は石垣中をまわり地質調査をおこなっていた。
その時にすでに白保空港の計画はできていたのだ。
調べてみなさいと言われた

それからさらに数年がすぎた。
節子ねえさんは登野城にうつり機織をして歌をうたっていた。
わたしは宮古島の佐良浜に通っていた。
伊良部のトーガニと石垣のトゥバラーマの関係を教えてくれた。
空港は陸上に造られることになった。
海人たちは白保をうめたてなくて良かったといった。
漁協の婦人部に節子ねえさんがよばれていた。
合成洗剤をやめる活動の講師だった。
白保は自然保護の象徴になっていた
風向きは180度変わっていた。

それからさらに数年ががすぎた。
わたしはバヌアツでの村落開発プロジェクトの準備をしていた。
節子ねえさんもバヌアツに行きたいといった。
きっとそこには昔の石垣のくらしがあるはずだから。
わたしもいっしょに行きたいとおもった。
節子ねえさんにバヌアツをみてほしかった。
準備をすすめていた矢先に節子ねえさんが交通事故にあった。
あんなに行きたかったのにと節子ねえさんは残念そうだった。
バンナ岳は鳥見台はまるでトーチカだねと言った。
セイシカ橋の奥が自衛隊の訓練に使われているよと言った。
八島の埋めたて地も完成したら軍事に利用されるはずと言った。
調べてみなさいと言われた

それからさらに数年ががすぎた。
節子ねえさんは病気で入院し結婚しその夫と死別していた。
節子ねえさんはDVで石垣島に逃げてくる女性たちを助けていた。
わたしは環境省のサンゴ礁保全事業で石垣島に通っていた。
サンゴ礁のことを考えるのなら陸のことを考えなさいと言われた。
蔡温はすでに赤土対策を考えていたと教えてくれた。
ハワイのアフプアアや近自然工法を勉強しなさいと言われた。
昔から続く島の森と海の関係を教えてくれた。
沿岸にアダン森を復活させマングローブ林とつなげ水を浄化する。
アダンの葉を生活に利用する文化を残していくべきと言われた
いまならまだ石垣にもなんにかの民具の作り手がいる。
太平洋中の女性たちを集めてアダンサミットをしようと考えた。

それからさらに数年ががすぎた。
尖閣諸島がどうのこうのと急に政治家たちがいいはじめた。
節子ねえさんは資料の山にうもれていた
テレビはみないけどインターネットは便利よねとYoutubeをみていた
節子ねえさんがおばあさんからおそわった昔の知恵や
節子ねえさんが進駐軍からゆずりうけた貴重な資料や
民具や織物や歌やさまざまな生活の知識をどうしようかと言っていた
節子ねえさんの料理はいつもおいしい
海の塩からつくる豆腐をならった


さて、これからさらに数年ががすぎた未来のために。

わたしは
せつこねえさんの うたは 
ふたたび うごきだした このまちがった れきしを 
とめられるの だろうか
ねえさんが いつもいつも なんじゅうねんも はなしていたことが
おそろしい みらいに つながらないように するために
わたしは ねえさんとの たくさんの やくそくを 
はたさなくては ならない