2015年11月14日土曜日

終戦70年・戦地の今

「終戦70年・戦地の今-あらたな戦争を起こさないために:旧日本軍の霊に導かれて」のタイトルで高齢者向けの市民講座をした。

70年がたちすっかりジャングルに覆われた戦跡

70歳をこす聴講者も多かったが、戦後70年たった今、高齢者といっても実はほとんどの人は実際の戦地を知らない。実際に兵隊で戦争に行った人はすでに90歳以上であり、むしろ戦後しか知らない高齢者のほうが多数になってきているのだ。

普天間基地が一望できる階段

 その上、731部隊にせよ、従軍慰安婦にせよ、南京虐殺にせよ、敗戦時に証拠を隠滅し戦後もずっと伏せられてきた戦場の悲惨な実態がようやく明らかになってきたのは1980年代以降であり、今の高齢者の多くは、日本の加害の歴史をほとんど知らされないままに成人している。実際に会場では90歳近い方から「現代の高齢者は、昔の高齢者と違って戦争のことを全然知らんけねぇ」という声を聞いた。

印が私が呼び寄せられた戦跡

さて、私の話は1987年の南寧に始まる。その年、大学生の私は中国の南部をひとりで放浪していた。たまたま、行き着いた南寧という街で地元の人にとても親切にしてもらい、私はその街がすっかり好きになった。

1987年当時の中国の街

南寧で仲良くなった友人

 その一年後、私の祖母が亡くなったときに、遺品を整理していて祖父の戦死公報がみつかった。それに目を通していた私はおもわず身震いした。その街こそ、当時1歳であった私の母を残し戦死した祖父の最期の場所だったのである。広い中国大陸の中で祖父の霊が私をひきよせたのだろうか。

2015年すっかり変わってしまった南寧

以来、私には旧日本軍の霊がとりつき、行く先々で、旧日本軍の痕跡に呼び寄せられ、そこで出会った霊が雪だるま式に背後霊となって増えていくことになる。そうした場所には、生き残った人の声ではなく、死んでしまった人の声が渦巻いている。

中国の新幹線

雲南省の南部のビルマ国境の小さな村を訪ねたときには、村の女たちが私の姿を見て逃げだした。あとで村長から、旧日本軍が来て以来、40年ぶりにはじめて日本人がその村にやってきたと教えられた。

ビルマ国境の少数民族の村

中国人に紛れて訪れた日本人

 調査で2ヶ月滞在したマレーシアのレダン島では、1941年12月8日つまり、真珠湾攻撃とコタバル上陸の日の前に、すでに日本軍がその島を占領していたという話を聞いた。もしこの話が本当だとすれば、太平洋戦争の開戦は史実よりも早かったことになる。

コタバル上陸の前夜にひそかに占領されていたレダン島

レダン島でディキバラを歌う

 ソロモン諸島のガダルカナル島は、あの有名な海戦と飛行場をめぐる血みどろの突入が繰りかえされた島である。補給のない戦線にマラリアと餓え。ガダルカナルは別名で餓島と呼ばれていた。なぜこんなところで戦わなくてはならなかったのか。

1990年から今に至るまで通っているソロモン諸島

日本軍の遺物

日本軍の血で赤く染まったレッドビーチ

 私の友人は、主戦場のひとつであるナハという村に住んでいる。村に周辺では今も遺品や遺骨が発見される。沖縄出身の兵隊が多かったために、そこはナハと呼ばれるようになったという。

米軍に食料をとどけたことがあるという村の長老(2015)

2015年の今もみつかる遺品の数々

遺骨の収集は終わっていない

ジャングルの中でみつけた遺品を街で売っている

 ミクロネシア連邦のプルワット島。トラック群島から島から船で24時間かかる離島。その近くにある小さな無人島には、日本軍の滑走路が作られていた。トラック群島が落ちたあと、前線はグアムやサイパンに移動したので、その島の日本軍は取り残された。終戦後も数ヶ月間、島に放置され、最後は米軍に回収される。無人島であり戦場にならなかったため、ジャングルの中は当時のままに、たくさんの遺物が散在していた。

サクラビールの瓶。ビール瓶はたくさん落ちている

当時のままでジャングルの中に点在する戦跡

 そして、沖縄。これまでの戦争の遺跡とはことなり、70年たった今も癒されることなく続く戦争の傷跡。南部の戦跡めぐりから、佐喜眞美術館・普天間・辺野古・高江と今の戦場がつながっていることを死者たちは教えてくれる。

辺野古の海岸

 辺境の地まで拡大した戦場をめぐり、生きて戻れなかった死者の声を聞くと、日本の歴史上最大の失政が浮きぼりにされる。国民を扇動して引き起こされた、数々の無謀な作戦と陰惨な戦いによって、どれほど多くの生命と財産が失われ、大切な近隣諸国民の信頼を失ったことか。取り返しのつかない歴史を今の私たちは背負っている。

高江の森の中

 「現代の高齢者」に対するメッセージとして、戦後70年にわたり平和憲法に守られ繁栄を享受してきた自分たちのためではなく、これから生きていく孫たちのために、今の政府が進めようとしているあらたな戦争への道を閉ざして欲しい。そんな思いで講演を終えた。