70年がたちすっかりジャングルに覆われた戦跡
普天間基地が一望できる階段
その上、731部隊にせよ、従軍慰安婦にせよ、南京虐殺にせよ、敗戦時に証拠を隠滅し戦後もずっと伏せられてきた戦場の悲惨な実態がようやく明らかになってきたのは1980年代以降であり、今の高齢者の多くは、日本の加害の歴史をほとんど知らされないままに成人している。実際に会場では90歳近い方から「現代の高齢者は、昔の高齢者と違って戦争のことを全然知らんけねぇ」という声を聞いた。
★印が私が呼び寄せられた戦跡
1987年当時の中国の街
南寧で仲良くなった友人
その一年後、私の祖母が亡くなったときに、遺品を整理していて祖父の戦死公報がみつかった。それに目を通していた私はおもわず身震いした。その街こそ、当時1歳であった私の母を残し戦死した祖父の最期の場所だったのである。広い中国大陸の中で祖父の霊が私をひきよせたのだろうか。
2015年すっかり変わってしまった南寧
中国の新幹線
ビルマ国境の少数民族の村
中国人に紛れて訪れた日本人
調査で2ヶ月滞在したマレーシアのレダン島では、1941年12月8日つまり、真珠湾攻撃とコタバル上陸の日の前に、すでに日本軍がその島を占領していたという話を聞いた。もしこの話が本当だとすれば、太平洋戦争の開戦は史実よりも早かったことになる。
コタバル上陸の前夜にひそかに占領されていたレダン島
レダン島でディキバラを歌う
ソロモン諸島のガダルカナル島は、あの有名な海戦と飛行場をめぐる血みどろの突入が繰りかえされた島である。補給のない戦線にマラリアと餓え。ガダルカナルは別名で餓島と呼ばれていた。なぜこんなところで戦わなくてはならなかったのか。
1990年から今に至るまで通っているソロモン諸島
日本軍の遺物
日本軍の血で赤く染まったレッドビーチ
私の友人は、主戦場のひとつであるナハという村に住んでいる。村に周辺では今も遺品や遺骨が発見される。沖縄出身の兵隊が多かったために、そこはナハと呼ばれるようになったという。
米軍に食料をとどけたことがあるという村の長老(2015)
2015年の今もみつかる遺品の数々
遺骨の収集は終わっていない
ジャングルの中でみつけた遺品を街で売っている
ミクロネシア連邦のプルワット島。トラック群島から島から船で24時間かかる離島。その近くにある小さな無人島には、日本軍の滑走路が作られていた。トラック群島が落ちたあと、前線はグアムやサイパンに移動したので、その島の日本軍は取り残された。終戦後も数ヶ月間、島に放置され、最後は米軍に回収される。無人島であり戦場にならなかったため、ジャングルの中は当時のままに、たくさんの遺物が散在していた。
サクラビールの瓶。ビール瓶はたくさん落ちている
当時のままでジャングルの中に点在する戦跡
そして、沖縄。これまでの戦争の遺跡とはことなり、70年たった今も癒されることなく続く戦争の傷跡。南部の戦跡めぐりから、佐喜眞美術館・普天間・辺野古・高江と今の戦場がつながっていることを死者たちは教えてくれる。
辺野古の海岸
辺境の地まで拡大した戦場をめぐり、生きて戻れなかった死者の声を聞くと、日本の歴史上最大の失政が浮きぼりにされる。国民を扇動して引き起こされた、数々の無謀な作戦と陰惨な戦いによって、どれほど多くの生命と財産が失われ、大切な近隣諸国民の信頼を失ったことか。取り返しのつかない歴史を今の私たちは背負っている。
高江の森の中
「現代の高齢者」に対するメッセージとして、戦後70年にわたり平和憲法に守られ繁栄を享受してきた自分たちのためではなく、これから生きていく孫たちのために、今の政府が進めようとしているあらたな戦争への道を閉ざして欲しい。そんな思いで講演を終えた。