2013年6月21日金曜日

シンガポール博物館でみた日本

「この銭を受け取ってくれ。お前が客をとらんで済むごと、俺が三年間貯めた有るだけの銭だ。」からゆきさんどころか、じゃぱゆきさんという言葉すら忘れられようとしている今の日本。世界の中で日本がどういう位置にあったのか、地域や歴史をこえた視野をもたつために外から日本を眺めてみよう。

最新の展示技術を駆使した、シンガポール博物館のおもしろいところは、通路を2つに分けて、国家の視点、個人の視点の両方を見せようとしているところだ。国家の歴史と個人の歴史、両者は交差しながらもまったく異なる。その人の立場や身分、出自によって多様な個人史は重奏し複雑な和音をかなでる。

そして、どんな悲惨な状況であっても、その時代の中で人は生きていること、生きていかなければならないことを、深く考えさせられる。


この銭を受け取ってくれ。お前が客をとらんで済むごと、俺が三年間貯めた有るだけの銭だ。一生の身請けがでけんかわりに、ひと月、数日だけでも客を取らんで、好きなことをしたらよか。十年でも二十年でも銭を貯めて、お前を連れに来てやりたかが、俺は農園の見回りで、幾らの給料ももらっとらんけん、身請けの銭がなかで、許してくれ。もう待たれん。嫁を貰うことになった。


ある日、日本軍がチャリにのってやってきた



シンガポールにも戦争がやってきた


イギリス・中国・インド・日本それぞれのプロパガンダポスターが並べられている。そのどれもが敵の残虐性と正義をうったえる。



祝)シンガポール陥落 朝日新聞社


日本軍に占領されシンガポールは困窮をきわめる


【こどもしんぶん「さくら」】
マライ
センデンブ
ハッカウ

「東亞の子供」

あじあの こどもは
よい こども、
みんな なかよし
きゃうだいだ。
こころを ひとつに
ちからを あわせ、
あじあの てきの
べいえいを、
やっつける まで
ぜんしんだ。
うれしい ときや
つらい とき
いつも しっかり
てを くんで。
ひのまるのはたを
せんとうに、
あじあ てきの
べいえいを、
やっつける まで
ぜんしんだ。



シンガポール国立博物館では、日本だけではなく、アジアとヨーロッパとの歴史を概観できる。シンガポールのお買い物につかれたら、涼みにいくとよいとおもう。なぜ自分がお買い物をしているのかその謎がわかるかもしれないよ。

2013年3月21日木曜日

阿波の人形師



府中と書いて「こう」と読む。かつて阿波の国府(こうのみや)が置かれた地だ。ここに伝説の人形師「天狗久」が住み、浄瑠璃人形師の里となった。


府中に現代の名工、美馬由夫さんの工房を訪ね、人形の仕組みや由来についてお話を聞いた。作りかけの人形を見せながら、美馬さんは実に気さくに説明をしてくれる。桐の木を削り鯨の髭をバネにした人形たちの精巧な仕掛けに驚かされる。






府中には1998年春に誕生した、全国初のエコ・ミュージアム「こくふ街角博物館」がある。「みて、さわって、つくらんで」をテーマにした地域の振興と発展を探求する博物館である。



エコミュージアムとは、地域の人の日常生活そのものを見せる博物館で、実際、見学と言っても、玄関の呼び鈴を鳴らしてお家におじゃまする所からはじまる。いきなり訪ねてきた客を心地よく歓待してくれる。






四国には、お遍路さんに対する「お接待」がはぐくんだ「おもてなしの心」がある。エコミュージアムの成功の鍵は、そんな四国の風土にあるように思った。


2013年2月24日日曜日

「もし」が呼びかける先に

仙台より南下し、阿武隈川周辺の津波のあとをめぐる。


案内してくれたのは、この地域の元校長先生。


淡々と語る地震の日の記憶は、数多の「もし」で埋め尽くされていた。もし学校が半日出校でなかったら、もし携帯からの連絡がなかったら、もしあのときすこしでも迷っていたら、・・・もし・・・。


もし、もし、もし・・・。



呼びかけるその言葉の向こうには、多くの知人の非業の死がある。ありえたかもしれない過去がある。学校から海まで海から2キロ。わずかな高低差が生と死を分けた。わずかな時間差が生と死を分けた。そしてその紙一重の結果の今がここにある。


もし、私が彼だったら・・・。むき出しの平原の真ん中に立ちながら、私の想像力は、隣にたたずむ彼の視野の先を、追いかけようとし、しかし、決して立ち入れないその日の風景に怯え、ただ震えるばかりでその場を動けない。


枯死した松林のなかに建てられた、真新しい墓地の向こうには、がれきを燃やす火が光っていた。

2013年2月21日木曜日

鬼首に行った

鬼首とかいておにこうべと読む。仙台への出張のついでに、鬼首にたちよった。



鬼首は、阿蘇のような、カルデラの中にある隠れ里である。航空写真を見るとその様子がはっきりとわかる。写真右上が仙台の方向になる。


鬼首はかつて、坂上田村麻呂がここで鬼を倒し、その鬼の首が岩にかぶりついたところから、その名がついたともいわれている。


鬼とは、先住民をさすのだろうか。かのアルタイの怨念を感じる。

鳴子ダムにせき止められた荒雄湖がこのカルデラへの入り口である。
荒雄湖は白く凍っていた。


急な斜面を上がり、鬼首に入ると一面「銀世界」だった。かつては冬には完全に閉ざされていたに違いない。


集落の中に、面白いお店があった。山でとれた山菜やキノコを瓶詰めにして売っている。
店の奥には熊の毛皮が見える。


赤まむしは3ピキ入りで18000円である。


これらの瓶詰めは、店主の大久さんの手づくりである。大久さんは薬草にも詳しい。


地元でとれた蜂蜜を加工した、「ブルーベリージャム」。


そして「鬼だれ」をおみやげに買った。


疲れに効くというので「またたび」もかった。


鬼首の入り口に、「こけし」で有名な鳴子がある。

 

鬼首とこけし・・・子消しの里・・・なんだかちょっと怖い。


そしてこのあたりは、納豆の産地でもある。道の駅で納豆を買った。
お約束の発酵系のお土産である。


さらに道の駅にナメコの栽培キットが売っていた。350円。

そういえば、このごろこどもたちが、ナメコの栽培がどうのこうのと話していたっけ?ナメコの栽培に興味があるのかな?ちょうどよかった、これもお土産にしよう。


 こどもたちもきっと喜ぶに違いない。

2012年12月18日火曜日

書評「ソロモンの偽証」宮部みゆき

「読書好きのあなたへ。できるだけネタバレをおさえ、読書の指針にはなっても妨げにはならないように書いたけど、あくまでもこれは私流の解釈です。あなたがどう解釈するかは、これを読んだあとで教えてほしいと思います」



「読んでみて」とゼミ生からわたされた湊かなえの「告白」は、まれにみるずさんな小説だった(気に入ってる人ごめんなさいね)。本を返すときに正直に「ひどいね」とつげたら「ほんと、ひどいよね」と同意された。本人も納得いかないから貸してくれたらしい。「なんでこんな小説が売れるんだろう」本好きの20代ゼミ生もそれが不思議でたまらないという。「映画化までされて・・・」「そういう時代なのかな?」

共感できない。登場人物のだれひとりとして現実味を感じられない。薄っぺらな人物描写と、ミステリーとしても粗雑で断定的な事実認定。作者の趣旨とは違うだろうが、ひとりの女性教師の一方的な予断からはじまる悪意のこもった復讐いや私刑(リンチ)の物語のように感じた。こんな話のどこが「爽快」なのだろうか。

「もしこの女性教師の正義が間違っていたら」そんな不安を最後までいだきながら読んだが、けっきょくその不安は少しも解消されないまま教師の正義を強引に押しつけられ物語は終わる。読後感はずっと「もやもや」だ。

きっと作者自身がこういう人で、世の中を白と黒とでしか理解できず、人間の複雑な心の動きに思いを馳せることができないのかもしれない。作者やファンには申し訳ないが、そんな結論を私とその学生は互いに確認しあった。複数の登場人物による多面的な描写のはずが、どれもがステレオタイプな思い込みの生き写し。心の理論の未成熟な作家が、がんばって人の心を空想しながら小説を書くと、まさしくこんな話ができるのかもしれない。ある意味怖い。こんな小説が支持されている今の時代も、だいぶ怖い。


宮部みゆきの「ソロモンの偽証」を読み始めたとき、ところどころのプロットがこの「告白」よく似ているので「あれ?」と感じた。学校で起きたひとりの死を扱いきれない若い教師の描写、恨みと復讐に情熱を注ぐ女性たち、これは「告白」への皮肉だろうか。でも「ソロモンの偽証」は、2002年から9年かけて連載されており、2007年に初出した「告白」よりも先に書き始められている。だからむしろ事実は逆なのかもしれない。つまり、宮部みゆきの「ソロモンの偽証」の連載の展開にいらいらした湊かなえが、「告白」を先に書いてしまったってこと?

真相はともかく、記述の厚みや立ち位置は両者で正反対だ。「ソロモンの偽証」は、最初の一連の記述でほとんどの事実関係が明らかになっているにもかかわらず、2178ページにもおよぶ長編となっている。読者に対する語りはあくまでも論理的で、伏線もわかりやすく示されている。

不明瞭なところはひとつもないが、先を読まずにはいられない。異色の実験的ミステリーである。まるで種明かしをしながら手品をするようなものだ。しかし、それでもおわりまで矛盾なく読者の期待を裏切らないのは、宮部みゆきの圧倒的な筆力のたまものだ。

さて、ではこの小説はなにを目指しているのだろう。多くのミステリーで最後に明快に解き明かされる真犯人とその犯行動機、いわゆる「謎解き」はこの小説のメインテーマではない。ならば現実の社会で、ひとつの事件がいかに手間をかけて説明されるのかを、学校の中に作られた疑似法廷という場を使って示すことなのだろうか。「たとえ事実はシンプルでも、現実とはこんなに複雑なものなのですよ」というのが、この小説を書いた作者からのメッセージなのだろうか。


実際そんな書評は多い。でも、それだけではないように感じる。私はこの小説からあらためて「裁判」いや「法廷」とは何だろうかということを考えた。

多くの事実から真実性を明らかにすることだけが「裁判」の役割ではないのではないか、さらにいえば、誰かを裁いて善悪を判断することだけが「裁判」の役割ではないのではないか、とそんなことを考えたのだ。

たしかに、実際の法廷では、被告と原告が設定され、それぞれの証人の語りと示された証拠から、どちらかが嘘をついており、どちらかが真実を語っており、正義がどこにあるのかを公正な第三者が慎重に明らかにしていく。この小説でも「ちょっとやり過ぎじゃない?」と微苦笑したくなるほどに、その手続きは厳密に踏襲されている。

私は昔から、裁判ではどうして対立する二者が原告と被告という非対称な立場に別れるのかが不思議だった。調停をめざす民事裁判ですら一旦はそういう手続きをとる。ましてや刑事裁判では事件の当事者ですらない検察側と、裁かれる被告人の立場は完全に非対称である。当事者同士の対等な議論では、真実は語れないのだろうか。そんな疑問を私はずっと持っていた。

この小説を読みながら、あらためてそのことについて考えた。それぞれ異なる思惑を抱えた複数の当事者たちは、事件が起きたあとに互いの意思を確認し理解することが非常に困難になっている。そんな状況にある当事者たちをいきなり対称的な議論の場に連れ出すことは、どんな権力をもってしても容易ではないだろう。特に、当事者たちが隠しておきたい真実を持っている場合は、自分に不利益を与えるかもしれない議論の場に参加する動機が生まれえない。

だからこそ、法廷では被告を「仮定」するのではないだろうか、被告にされる人には申し訳ないが、実は、便宜上そうしているのに過ぎないのではないか、そんなふうに現実の裁判という制度を考え直してみた。

誰かを被告に仮定し、彼が正義か悪かを問うことによってはじめて、多くの当事者たちは議論の場に参加なければならないと感じ、重い口を開く。ともすれば逃げようとするステークホルダーたちを無関心ではいられなくするための仕掛けが、この「法廷」というシステムなのではないだろうか。

そうだとすれば裁判を「真実か虚偽か、正義か悪か」という視点からだけ見るのは間違っている。白か黒かは二義的な問題だ。そうではなく「ソロモンの偽証」という長い小説の中で登場人物たちが必死におこなっているのは、いわば「関係性の修復」である。

「修復的司法」という言葉がある。どんな社会でも人間同士の葛藤や紛争がある。そしてそれを扱うための公正なシステム必要とされる。バヌアツの島嶼社会のようなちいさなコミュニティでは、裁判のあとも当事者同士がともに同じ島で生きていかなければならない。そうした社会の伝統的な裁判では、しばしば事後の関係性の修復に時間をかける。「たとえ深刻な係争であっても、当事者のこども同士が結婚するというのが理想の裁判である」あるチーフはそんな表現で島の裁判を説明した。

私たちのような近代的な社会においても、加害者と被害者の関係性を取り戻すための「修復的司法」の考え方をとり入れるべきではないかという議論がある。

「ソロモンの偽証」を読んで思ったのは、「修復的司法」は単なる理想論や制度の問題にとどまらない、むしろこれこそが裁判の本質だったのかもしれない、ということである。法律事務所に勤めた経歴をを持つ宮部みゆきは、実際の裁判を見る中で常にそれを感じていたのではないか。

だからこそ、生徒どうしを検察と被告に別れるという厳しい状況に追い詰め、学校裁判という深刻な設定を描きながらも、断罪ではなく、葛藤を選んだのである。そのためには、たとえどんなに時間がかかっても、丁寧に予断を取り除き、すべての登場人物たちが自分の役割を理解し、自分から語りはじめるまで、先を急いではならない。作者も読者も、固唾をのんでその瞬間を待ち続ける、そんなスリリングな小説に仕上がったのである。


最後に智恵と正義について書いておこう。ソロモン王が神から授かったのは「智恵」である。しかし皮肉な話だが、現実には多くの智恵や正義は害をなす。たとえば政治の世界を見ればそれはよくわかる。悪による被害者よりも正義による被害者の方が圧倒的に多い。凶悪な殺人犯が10人の人を殺す間に、正義の政治家が決定した政策で100人のホームレスが凍死する、10000人の市民が空爆される。

智恵も正義も力であるが、その力をどのように使うかを、ひとりひとりの人間は試されている。たとえ「知恵者の偽証」であったとしても・・・。

「ソロモンの偽証」を読んで、ひりひりと痛む自分自身の高校時代のことを、いとおしく思い出した。そう、私もまた追い詰められ苦しんでいた、ある「友人」に、そして学校に。

あの頃の方が今よりもずっと智恵があったように思う。社会に対して誠実だったように思う。すでに、わかりすぎるほどによくわかっていた。智恵や正義は大切だが、それだけではだめだ。あれもまたそういう時代だったからだろうか。「大人たちよ、あきらめてはいけない」宮部みゆきはまだそういっている。ありがとう。