大友克洋監修のアニメ映画『MEMORIES』(メモリーズ)をみる。
地下鉄サリン事件と阪神淡路地震が起き、Window95が発売された1995年にこの映画は公開された。あるいみSFというジャンルが文学でも映画でも、まだ何かしらの批判的力を持っていた最後の世代の映画であるもいえる。このあとSFは、ファンタジーや兵器マニアに解体され失墜していく。
おもしろかったのは、3話のオムニバスからなるこの映画で描かれている世界が、その20年後の現在すでに現実化しており、しかもそれがきわめて凡庸で日常的な現象におちついてしまっていることだ。
1話の「彼女の想いで」は仮想現実と日常現実との葛藤だ。たとえばインターネット上のSNSを見てもわかるとおり、すでに私たちは、実際に自分が体験した日常現実と、ネットのどこかでみつけた仮想現実を、ほぼ対等なものとしてあつかっている。そこには大きな葛藤もなければ錯乱もない。いや両者を混同している時点で、すでにこれは完全な錯乱状態なのだが、多くの人々はそれに気づいていない。
2話の「最臭兵器」は、同じ年に起きた地下鉄サリン事件を強く意識したものだが、むしろ暗示されているのは放射能汚染である。映像で描かれている風景や対応は、まるで福島の事故のニュースを見るかのようだ。そして今やこれもまたSFの世界ではなく日常化している。日本には赤色に塗られて人が入ることができない場所がある。映画の中でアメリカが出てくるあたりに関しては、現在ではまったく笑えない冗談になっている。
3話の「大砲の街」はある国の学校や会社での一日が舞台である。当時であればまるで社会主義国を思わせるようなこの前時代的な風景が、じつは自分たちの未来の姿であったとは皮肉な話である。あの時代よりも「進撃の巨人」のような中途半端なプロパガンダ作品がもてはやされる閉塞した今の時代の方が、この映画に共感するものも多いだろう。
バブルの真っ最中、日本がもっとも自信を持ち、これからより民主的な方向に舵を切るだろうと思われていた矢先の前世紀末に、地下鉄サリン事件と阪神淡路地震がおきインターネットが実現し、現実が物語を抜いていった。その20年後の日本になにが起こるかを予想していた大友の物語的感性は鋭いが、現実はその予想以上に凡庸で陳腐で日常的だった。
だからといって彼のこの警告が無効であるというつもりはない、むしろ20年の時の間に感覚が鈍り、今の状況を当たり前の日常と受け入れてはじめている私たちこそ、あの時代に立ち返り、思い出すべきなのかもしれない。もはや異常事態なのだと。もはや私たちはあのSFの世界を生きているのだと。