2015年12月8日火曜日

だいすけさんへ

だいすけさんへ
ぼくは、すききらいとか、はしのもちかたを きをつけるので ぎょぶとかに つれていってください。
あと、おんせんとか、かんじとか、おいしいおこめとか、おいしいぎゅうにゅうとか、すいぞくかんとか、どうぶつえんとか、いきたいので つれていってください。じんやより。


甥っこジンヤが、小学校の授業で書いたお手紙。ジンヤ母である私の妹が、親子面談のときにわたされたという。


まず先生に聞かれたのは「『だいすけさん』って誰ですか?」という質問。ふつうは田舎のおじいちゃんやおばあちゃんにお手紙を書くパターンなのだが・・・。なぜ、だいすけおじさん・・・?しかもちょっとこわそう。


次に「『ぎょぶ』って何ですか?」。これは「うまく説明できなかった」と、ジンヤ母。


夏休みに遊びに来た時は、うちできびしくしつけていろいろ漢字も教えたのに、手紙は漢字がひとつもない。


さらに後半の文章は、かれの願望があふれですぎて、やや破綻ぎみ。ジンヤは冬休みにまた名古屋から小倉に来たいといっている。大學堂のこども店長に任命してあげよう。

京都出町の「ど根性松」

京都の賀茂川と高野川の合流地帯は鴨川デルタとよばれている。鴨川デルタにかかる河合橋の欄干に松がはえている。この「ど根性松」、まだ小さいのであまり気づかれていないが、それでもずいぶん大きくなっている。


出町柳駅の真ん前である。場所が場所だけに、注目されるのは時間の問題だと思う。土もない、こんなところでどこまで成長できるのか、まさに天然の盆栽である。

  

今のところかわいらしいかんじの松である。大きく育ってほしいが、切られてしまうかもしれない。すべては、神の加護とみなさんの支援次第である。下鴨神社の霊験を示す松として末の世まで応援にしたい。

   

本ブログでも定点観測を続ける予定である。何かあったら連絡してほしい。

高野川は昔に比べるとずいぶんきれいになったように感じる。すてきな散歩道である。

 

2015年11月25日水曜日

ノマドないちにち

 長津さんをお招きして「国家を越える人々−越境の文化論」という演題でシンポジウムをおこなった。私と長津さんは、20代の頃に同じ雑誌の同じ号(季刊民族学74号)でエッセイデビューをしたという古い縁があり、共通の友人も多い海人研究の盟友でもあるが、実際に親しく会うようになったのはほんの最近のことである。

 講演では華人研究の田村さんも参加して、国家と移民と境界の問題を多方面から議論した。


私の発表はこんな感じで始まった。「空はだれのもの・海はだれのもの・土はだれのもの」


まず80年代以降、私がおこなってきたソロモンと石垣と宮古の事例をあげ、海の人々がどのように境界を越えて生きているかを報告した。しかし、これは決して素朴な伝統社会の民族学的ノスタルジーの話ではなく、国家を越えるためのしたたかで戦略的な話につながる伏線である。


 さて、国民国家のシステムは、すでに20世紀後半から回復不能な破綻が進行していると、私は常々考えている。さらに21世紀に入り国民国家はネオリベラリズムとむすびつき、まるで社会主義の最期の時のような無謀な政策を繰り返し、必死に延命を計っているのが今の姿である。つまり現在のような戦争の再生産によってかろうじて維持されるような国民国家は、すでに断末魔といってよい状態であるといえる。


 ネオリベラリズムもリバタリアンも自分たちの帝国を築くことができれば、いずれ国家を見限るだろう。それを一番意識しているのは、アメリカや中国であり、一番勘違いしているのは日本かもしれない。

 実際のところ100年先の国家はまったく想像できないし。30年先でも怪しい。しかも国家というのは原発の廃炉並みに危険なものであるから、慎重に解体するにはずいぶん時間がかかるだろう。


この先、領土の意味が失われボーダーが消えたときにどういう世界システムが可能になるのだろうか。越境する海の民はその知恵を持っている。スケールフリーのネットワーク社会では、素朴な遊動民とグローバル社会のノマドはまったく区別できない。遊動の原動力は、いつの時代でも「資源」であり「市場」なのである。

 これら流動化しネットワーク化した越境社会のモデルから、どんな未来のシステムを築くのか、それは現在を生きる私たちひとりひとりの世界観や哲学にかかわる問題でもある。くりかえすが、そのときもはや、あてとなる国家は存在しない。

 最後に、とても大切なことをひとつ書いておこう。競争と独占だけがネットワーク社会や越境社会の帰結ではないということだ。では他に何があるか。その答えを知りたければ、この先をもうすこしだけ読んで欲しい。海の民が教えてくれた秘密。


 というわけで、講演や文章からだけでは伝えられない、ノマドな1日を紹介しよう。



 ノマドの料理。講演が始まる前に近くの河原でたき火をして、メラネシア式石焼きでクマラとニワトリの丸焼きをする。人口百万人の政令指定都市の中にも、ノマドはこうした空間を見つけだす能力をもっている。



 ノマドの宴会。市場(いちば)経済における宴会は離合集散を繰り返し、きわめて自由度が高い。東京から来たノマドのみならず、尾道から来たノマド。サラワクから来たノマド。はじめてあったノマドたちは一期の邂逅を楽しむ。


ノマドの朝。ノマドの朝はセリで始まる。多くの人は知らないかもしれないが、競争と独占だけが市場ではない。共感と共謀の方が実際にはとても重要なのだ。まさに今朝のセリもそんなノマドな感じに終わった。
 

 ノマドの原風景。ノマドの故郷には境界がない。「ここから見える風景はすべて君のものだぁ」なんて叫んで、ちょっと照れてみるのも、またノマドである。



 ノマドの仕事。ミツバチ社会は、いわれているような管理社会のモデルではなく、実はきわめて完成度が高いネットワーク社会なのである。それは低コストで柔軟で強靱な社会システムだ。


 ノマドの昼。大學堂での特大カツオのたたき丼、なんとこれでたった500円。これこそ究極の市場(いちば)原理。海洋資源の搾取、市場至上主義の権化なり。どうだ、ノマドのおそろしさが、これでわかったであろう。

 


2015年11月14日土曜日

終戦70年・戦地の今

「終戦70年・戦地の今-あらたな戦争を起こさないために:旧日本軍の霊に導かれて」のタイトルで高齢者向けの市民講座をした。

70年がたちすっかりジャングルに覆われた戦跡

70歳をこす聴講者も多かったが、戦後70年たった今、高齢者といっても実はほとんどの人は実際の戦地を知らない。実際に兵隊で戦争に行った人はすでに90歳以上であり、むしろ戦後しか知らない高齢者のほうが多数になってきているのだ。

普天間基地が一望できる階段

 その上、731部隊にせよ、従軍慰安婦にせよ、南京虐殺にせよ、敗戦時に証拠を隠滅し戦後もずっと伏せられてきた戦場の悲惨な実態がようやく明らかになってきたのは1980年代以降であり、今の高齢者の多くは、日本の加害の歴史をほとんど知らされないままに成人している。実際に会場では90歳近い方から「現代の高齢者は、昔の高齢者と違って戦争のことを全然知らんけねぇ」という声を聞いた。

★印が私が呼び寄せられた戦跡

さて、私の話は1987年の南寧に始まる。その年、大学生の私は中国の南部をひとりで放浪していた。たまたま、行き着いた南寧という街で地元の人にとても親切にしてもらい、私はその街がすっかり好きになった。

1987年当時の中国の街

南寧で仲良くなった友人

 その一年後、私の祖母が亡くなったときに、遺品を整理していて祖父の戦死公報がみつかった。それに目を通していた私はおもわず身震いした。その街こそ、当時1歳であった私の母を残し戦死した祖父の最期の場所だったのである。広い中国大陸の中で祖父の霊が私をひきよせたのだろうか。

2015年すっかり変わってしまった南寧

以来、私には旧日本軍の霊がとりつき、行く先々で、旧日本軍の痕跡に呼び寄せられ、そこで出会った霊が雪だるま式に背後霊となって増えていくことになる。そうした場所には、生き残った人の声ではなく、死んでしまった人の声が渦巻いている。

中国の新幹線

雲南省の南部のビルマ国境の小さな村を訪ねたときには、村の女たちが私の姿を見て逃げだした。あとで村長から、旧日本軍が来て以来、40年ぶりにはじめて日本人がその村にやってきたと教えられた。

ビルマ国境の少数民族の村

中国人に紛れて訪れた日本人

 調査で2ヶ月滞在したマレーシアのレダン島では、1941年12月8日つまり、真珠湾攻撃とコタバル上陸の日の前に、すでに日本軍がその島を占領していたという話を聞いた。もしこの話が本当だとすれば、太平洋戦争の開戦は史実よりも早かったことになる。

コタバル上陸の前夜にひそかに占領されていたレダン島

レダン島でディキバラを歌う

 ソロモン諸島のガダルカナル島は、あの有名な海戦と飛行場をめぐる血みどろの突入が繰りかえされた島である。補給のない戦線にマラリアと餓え。ガダルカナルは別名で餓島と呼ばれていた。なぜこんなところで戦わなくてはならなかったのか。

1990年から今に至るまで通っているソロモン諸島

日本軍の遺物

日本軍の血で赤く染まったレッドビーチ

 私の友人は、主戦場のひとつであるナハという村に住んでいる。村に周辺では今も遺品や遺骨が発見される。沖縄出身の兵隊が多かったために、そこはナハと呼ばれるようになったという。

米軍に食料をとどけたことがあるという村の長老(2015)

2015年の今もみつかる遺品の数々

遺骨の収集は終わっていない

ジャングルの中でみつけた遺品を街で売っている

 ミクロネシア連邦のプルワット島。トラック群島から島から船で24時間かかる離島。その近くにある小さな無人島には、日本軍の滑走路が作られていた。トラック群島が落ちたあと、前線はグアムやサイパンに移動したので、その島の日本軍は取り残された。終戦後も数ヶ月間、島に放置され、最後は米軍に回収される。無人島であり戦場にならなかったため、ジャングルの中は当時のままに、たくさんの遺物が散在していた。

サクラビールの瓶。ビール瓶はたくさん落ちている

当時のままでジャングルの中に点在する戦跡

 そして、沖縄。これまでの戦争の遺跡とはことなり、70年たった今も癒されることなく続く戦争の傷跡。南部の戦跡めぐりから、佐喜眞美術館・普天間・辺野古・高江と今の戦場がつながっていることを死者たちは教えてくれる。

辺野古の海岸

 辺境の地まで拡大した戦場をめぐり、生きて戻れなかった死者の声を聞くと、日本の歴史上最大の失政が浮きぼりにされる。国民を扇動して引き起こされた、数々の無謀な作戦と陰惨な戦いによって、どれほど多くの生命と財産が失われ、大切な近隣諸国民の信頼を失ったことか。取り返しのつかない歴史を今の私たちは背負っている。

高江の森の中

 「現代の高齢者」に対するメッセージとして、戦後70年にわたり平和憲法に守られ繁栄を享受してきた自分たちのためではなく、これから生きていく孫たちのために、今の政府が進めようとしているあらたな戦争への道を閉ざして欲しい。そんな思いで講演を終えた。

2015年9月9日水曜日

度胸試し

 去年のちょうど今頃の話だ。


 高校で防衛大学校を受けるように指導されたという。きけば国立大学を希望する生徒のほとんどが「受けることになっている」という。「防衛大に行く気があるのか」と聞くと「その気は全くない」という。どうにも要領を得ないのでさらに尋ねると、「受験料が無料だから度胸だめしで受けなさい」と担任が勧めているのだという。驚いたことに「すでに教室で願書を書き、ほとんどの生徒が申し込んだ」という。さらに防衛医大にも申し込んでいた。


 事情がはっきりしないので「いくら受験料が無料だからといって、血税をつぎこんだ国防の府に、その気もない冷やかしのような生徒を、こともあろうに度胸試しなぞで受験させるとは、なんという亡国教師だ」と怒ることもせず、「人殺しの練習をするような非人道的な組織に入れるために、おまえをここまで育てたわけではない」と諭すこともせず、ただただ、にわかに信じられない気持ちだった。


 翌日、ごく事務的に高校に電話をかけ、担任に事実関係の説明を求めた。するとその担任は、「福岡県の進学校ではどこでも普通にやっていることです」と答えた。そしてやはり「度胸づけと腕試し」と発言した。

 本当にそうなっているのだろうか。ほかの高校の実情も知りたい。いつのまに、この国の教育はこれほど劣化したのだろうか。

さらに「受験させることを、事前に保護者に確認しないのはなぜなのか」と聞くと、「模試みたいなものなので」と答えた。「教員の中に異論はないのか」と聞くと、口を濁す。どうにも担任では説明がうまくできないようで、すぐに折り返し副校長から電話がかかってきた。

 副校長は「思想的な背景はないこと」「あくまでも生徒の希望であること」「今から受験を取り下げることもできること」そしてもういちど「他の高校でも防衛大を受けさせていること」をはっきり説明した。

 ほんとうだろうか?いつからだろうか?福岡県だけだろうか?そもそも思想的な背景がなくて、どうして戦争ができるのだろうか?生徒の希望というがそれは自衛隊に入り戦地で敵と戦いたいという希望だろうか?無料だから度胸試しで受験したいという希望だろうか?

 副校長は「来年からは保護者の確認をとってから受験させる」と約束したが、その約束は守られているのだろうか?