2016年2月3日水曜日

南種子の旅



私にとってカミとはこういうものである。
人為と自然の融合。南種子のいたるところにカミは住んでいた。


神が宿る森。「原始の神社をもとめて」の岡谷公二がかたる古来の神道が息づいている。
海の向こうから米が伝えられた神田。



宮古島の大神島のウタキ、対馬のオソロシドコロ、玄海に浮かぶ沖ノ島の祭壇、行橋や京都郡の古墳。蓋井島の北にある森山、そしてこの種子島のガロー森、御田の森。



わたしが今まで訪ねたことのあるさまざまな「森」がこの本の中に取り上げられている。神の森、いや森そのものが神なのだ。



これが赤米。種子島は種の島。南の海から種がたどり着いた島。

種子島産の日本茶も、とてもおいしかった。甘味やうま味が強い鹿児島や他の九州のお茶とは明らかに違う、渋めのしっかりした味だ。好みもあるが、私はこういう煎茶が好きである。 調べてみると種子島のお茶は明治に静岡からきた移民が始めたらしい。なるほど納得。
値段と質を考えると種子島の緑茶はかなりレベルが高い。日本茶業界の穴場だとおもう。今年の新茶シーズンには、仁淀川のお茶と合わせて、ちょっとまとめて買っておこう。



小正月の夜に、家々を訪ねて舞う、南種子島の 蚕舞(かぁーごまぁー)。



ご招待いただき、家人とお迎えした。



地域の青年部や高校生たちが継承する、小正月の言祝ぎ。



お囃子と繭玉



南種子の丘陵地を下ると不思議の森が広がる。



そして美しい海にでる。



どこまでも続く自然海岸。海岸に人工物がほとんどない。



これほどみごとな自然海岸は日本ではなかなか見られない。そして美しい。



「私の渚100選」に加えよう。



浜をよく見ると先史時代の土器がおちている。かつて人々はこの海でどんな暮らしをしていたのだろう。



海と貝の遺跡。かつての海人たちはどうやって海を渡ったのだろう。



広田遺跡から出た貝の加工品のレプリカ。北米先住民やアイヌ模様のようなデザイン。



さて、森の中には鴨が住む池がある。



種子島では数名の猟師だけが継承する
投げ網式の古式カモ猟がおこなわれている



猛禽類をおそれカモは山の稜線のぎりぎりを飛ぶ
カモがよく通る稜線の鞍部が狩り場である
数メートルの樹上に台座が設置されている



池のカモが水田にむかう夕刻を待つ
猟師が登った隣の樹上から撮影した



カモがきた瞬間に逆三角形の網を投げる
姿が見えないときは羽音で判断する



投げた網に2羽の鴨がかかり
残りは飛び去った



捕らえたカモを手際よくさばく



映像は一瞬なのでお見逃しなく。



  種子島の古式カモ猟「ツキアミ」 from 活動舎



「ぎょぶる」イケメンとは池メンのことと覚えたり。



「イケメンよりゲンゴロウ」師弟対決



おびただしい数のコガタノイケメン



大量なソブ。鉄が多い種子島では鉄砲が伝わる前から製鉄がおこなわれていたという。ソブは低温で還元できるため古代鉄の原料として利用された。鉄バクテリアのはたらきで、水に溶けた鉄分が綿のように析出する。



地面からわき出す、温泉。南種子島はすごい。



さらにこれは、ヤッコソウ。はじめてみた。
1属2種しかいない希少な寄生性の被子植物。



なんとも、かわいい。



そしていよいよ待望のシラスウナギ漁へ。今年は、1キロ120万円にもなるという。たったひとすくいで数万円だ。むろん鑑札がなければとれないし、許可を出す人数も厳しく制限されている。



このシラスウナギが養殖用に全国に送られる。そして養殖ウナギは管理された環境下で人工飼料を与えられ、わずか半年で出荷されるという。自然の生き物を食べて数年かかって大きくなる天然ウナギとは別物だ。



種子島には天然に近い形で鰻が飼われている露地池の養鰻場があった。さて、肝心のシラスウナギだが、何せ自然相手の仕事である、上がって来るときは来るし、来ないときには全くいない。残念ながら不発であった。



というわけで種子島のみなさまお世話になりました。慌ただしい滞在でしたが、驚くことばかりでした。暖かくなったらゆっくり訪ねます。

HDRと人間の視覚

新幹線で小倉に戻った。山陽新幹線はトンネルばかりでさして面白い風景はないが、唯一ちょっと楽しみなのが徳山。夜は煙突から火が出ているし、昼は昼でこんな感じ。走っている新幹線の窓から写真を撮る。


 HDRというのは、単にダイナミックレンジをひろげているだけではなく、実は人間の眼(より正確に言えば脳だけど)が見ているように、画像を強調しているのだと考えています。つまり画家や私たちの頭の中にはそういう絵が見えていて、ふつうの写真にはそれがない。


だからHDRはまるで絵のように「かっちょよく」見えてしまうのです。三枚の写真はそれぞれ加減を変えて、より「かっちょよく」感じるように輪郭や色閾を強調しています。

2016年1月15日金曜日

世界はなぜ美しいのだろうか

自然の秩序にも社会の秩序にも、そこにはある種の美しさがある。つい神様や誰かが作ったと思いたくなるが、盲目の時計職人は神でも王でもない。

それは小さな法則の相互作用によって、意図せずできあがった壮大で複雑な模様だ。その模様こそが世界の美しさの正体である。



複雑系や関係性の科学を知ったときの驚きは今でも忘れられない。これは私にとってのコペルニクス的転回だった。

自然の秩序の美しさは神様が作るのではない、物質どうしの小さな相互作用から創発されるのだ。社会の秩序の美しさは国家が作るのではない、個人の相互作用から創発されるのだ。

美しいものにふれたときに、ついつい、神様が先にいて、道徳や文化などの決まり事が先にあって、と思いたくなる気持ちはよくわかる。信仰や信念はそうして生まれる。

でもはっきりと断言しよう、それは間違っている。すでに神も王も死んだ。しかしあいかわらず世界は美しい。

自然科学も社会科学もセントラルドグマの時代ではなく、エレメントの相互作用を問わずしては成り立たない。経済や政治のみならず、法や教育もおなじである。単純な法則の相互作用が複雑な秩序を作っている。

さてでは、なぜ人はその複雑な模様を美しいと「わかる」のか、実はそれが私のライフワークである。

2016年1月13日水曜日

北九州の成人式とマスコミの共犯

北九州の成人式を見に行った。くだんのヤンキー成人たちは会場周辺の広場に集結しているので誰でも見学可能だ。




驚くのは、ヤンキー成人たちよりも、それを取材するマスコミの数。テレビはキー局も含め全国から集まり、新聞や雑誌や、報道きどりの正体不明のネット記者、そして趣味のカメラマン集団が成人たちの間をうろうろしている。


開場の2時間以上前から、そこら中ではじまる取材合戦。目的はもちろん今や全国的に有名となったヤンキー成人。ひねくれものの人類学者の私は、この取材の様子をずっと見て回った。


誰かに見せるために派手な衣装を着ているヤンキー成人たちは、基本的にはどんな取材や撮影に対しても好意的だ。むしろ積極的に、そして割とマジメに対応している。「見た目とは逆で、実は素直でいい奴らなんで」などとアピールする。


新聞とテレビでは、インタビューの様子がずいぶん違う。新聞はノート片手に、たとえば今の政治についての意見なんて細かな話もきいている。ヤンキー成人以外の普通の成人の取材もしている。


しかしテレビは、どのインタビューを立ち聞きしても、ほとんどが同じ感じのワンパターン進行だ。そして取材相手はヤンキー成人の中でも、ほんの一部の目立つ人たちに集中していた。


「成人おめでとうございます」
『ありがとう(とかなんとか)』
「すごーいですね」
『いぇーい(とかなんとか)』
「どんな気持ちですか、成人の抱負をひとこと」
『楽しいです(とかなんとか)』
「ふだんはどんなお仕事しているんですか?学生さんですか?」
『バイトです(とかなんとか)』
「ふだんはマジメなんですね」
『はい、まあ(とかなんとか)』
「これはいつから準備?どうしてこんな格好を?」
『まあ、ともだちと相談して(とかなんとか)』
「こういう成人式ってどうですか?」
『人生最後なんで、楽しくていいと思います(とかなんとか)』
「それにしてもすごいですね、これとか目立ちますよね」
このあと、インタビュアーは、おだてにおだてて成人たちをノリノリにし、カメラの前で大騒ぎの映像をしっかり納め、次のターゲットへ。


こういう手法をテレビ局はたぶん「やらせ」とは呼ばないが、かぎりなく「やらせ」に近いように感じる。インタビュアーはあたかも若者たちに共感し、完全に同意しているような好意的態度をあからさまに見せる。人のいいヤンキー成人たちはすっかりあおられ調子に乗る。現場にいた私が見る限り、一連の北九州の成人の日報道は、マスコミとヤンキー成人の共同作業であった。


しかし実際の報道を見れば、それだけではないことはすぐにわかる。テレビも新聞も派手な成人式をひととおり紹介した後は、必ず最後に「市はそうした風潮をいかがなものかと考えている」とか「市民の中には品位に欠けるという声もある」とかいう批判をつけくわえてまとめる。マスコミはこれをバランス感覚とよんだり賛否両論と呼ぶのかもしれないが、取材の風景を見る限り、これは明らかにアンフェアである。


ヤンキー成人への取材では批判的な雰囲気はほとんどだしていない。マスコミの取材は調子にのる成人たちの片棒を担いでる。しかし乗せられた成人たちはそれが批判的な文脈で使われ、結局は自分たちのコメントが番組の中で裏切られるということを、知らされていない。もちあげるだけもちあげてはしごをはずす。彼らは共犯関係にある。もしヤンキー成人の品がないのだとすれば、それを面白がって盛り上げているマスコミの品はどうなるのだろうか。


ついでに言うと警備や警察も、ちょっとしたいさかいにも介入し、このときとばかりに酔ったヤンキー成人たちを威圧する。飲み屋であれば事情聴取レベルの民事トラブルに対し過剰に対応する。従わなければどうなるのか。この場合の何が公務あたるのか不明だが、酔っぱらって前後不覚なヤンキー成人がちょっと警察に突っかかれば、公務執行妨害でたやすく現行犯逮捕となる。成人たちの目の前で権力をアピールする絶好のチャンスである。


マスコミもまるでそんな突発的なトラブルを期待していたかのように、荒々しい声が聞こえると、にこやかなインタビューを切り上げて集まってくる。成人・マスコミ・警察は、それぞれ異なるもくろみをもってこのイベントに共犯し、巧みに相手を裏切り、それを見ている市民の味方を装うのである。こうしてこの典型的な劇場型報道が生まれる。


さて、最後にしっかり確認しておかないといけないのは、これほどの数のマスコミが集まっているにもかかわらず、「マスコミ自身がどのように取材しているのかを伝えている報道は皆無である」という点である。まるでなにかのタブーかお約束のように、マスコミどうしは互いに過剰取材の事実をないことにして全く触れない。編集された映像では巧みにアップを使い、自分の局のカメラに他局のカメラがうつりこむことすら避けようとしている。


たぶんこの北九州の成人報道は例外的なものではないだろう。いまの日本の映像メディアの体質そのものなのだろう。


遊具をヤンキー成人の手から守るガードマン

来年の社会調査実習ではメディアと報道を考えるための題材として、学生たちとともにこの共犯の現場をきちんと調査してみようと思う。できればこの記事を読む人も、カメラの向こうで起きていることについての想像力を持って、どのようにこの映像がつくられているのか、すこし考えてみて欲しい。

人類学の罠にかかったマスコミとカメラおばさん

【追記】
誤解してほしくないのだが、私は、ヤンキーのセンスはもとより内向きの仲間意識もそして短絡的な暴力性も、子どもの頃から大嫌いである。非常識とか無秩序とか批判するが、むしろ彼らは自分たちの世界の中ではきわめて秩序的で強い常識にしばられている。それも好きになれない理由のひとつだ。だから元ヤンキーが更正して善人になったなんていう美談にも辟易する。単に常識を乗り換えただけで、社会の側が、勝手に彼らを悪人や善人にしたてている。反知性的な同調体質はなにもかわらない。私の知る限り、孤高の数学者になった元ヤンは皆無である。

さらに誤解してほしくないのだが、だからといって、ヤンキー成人式がダメだとも思っていない。そういうのがある方が普遍的で健全な姿だし、祝祭の起源と社会的連帯、あるいは、霊長類のワカモノオスのディスプレーとの比較など、人類学的な興味はつきない。すでに鉄壁のガードによって、お山の滑り台が使えなくなったので、彼らも来年はお立ち台を持参するだろう。そしてこのまま行けば、早晩、山車を持ち出し、提灯を持ち出し、太鼓を持ち出して、やがてそのあたりを踊りながら練り歩くようになるだろう。そこまでいけば立派な観光資源であり伝統行事である。

マスコミの論調も、元気者の表現者である彼らに過剰な期待をするもの、彼らがおかれている閉塞的な社会現状に対するガス抜きにすぎないと冷めた目でつきはなつものなど、いろいろあるが、肯定か否定かと言えば、いまのところおおむね肯定的である。しかし何かの不祥事が起きたり見る人が飽きてしまえば、この共犯関係はいとも簡単に解消される。たとえば、夜に家の近くを散歩してみてほしい、あれほど賑やかだったイルミネーションハウスが、いつのころからか住宅地からなくなっている。

そんな日本の将来にとって本当に心配なのは、サルようにはしゃぐ成人たちの背後で静かに開場を待つ、ヒツジのようにおとなしい成人の群れのような気もするが、干支も変わり、かれらにはニュース性がないのだろう・・・。けれど会場の中では議員たちが手ぐすねを引いてまっている。