2017年1月15日日曜日

「人生を生きる」ということ

昨日は大學堂でモザイクスのインプロ(improvisation)即興劇をみた。みながらいろいろ考えた。

たとえばこういう時、あなたならどうする?

それはひとことで言えば、「人生を生きる」とはなにかということである。さらに乱暴にいえば、世の中には「人生を生きている状況」と「人生を生きていない状況」のふたつがあるということである。

しかしながら、そんな大それたことをひとことでいきなり書いても、全く意味がわからないだろう。まずは「発し手」「受け手」「聞き手」という切り口から出発して、即興劇をみながら私が考えたことを説明してみたい。

発し手、受け手、聞き手。3者。今回のインプロの場合、発し手と受け手は役者で、両者は発話ごとに役割交代する。聞き手は観客である。

発し手はなにかの意図(思惑)を持って聞き手に対して言葉を投げる。ときにはまったく偶発的な場合もあるが、一定の会話が続くためには、偶発性ばかりでは不十分で、なんらかの文脈の意識し、物語をつなげていかなければなならない。

受け手は、発し手の意図を適切に回収し、ひとつの文脈にのせようとする。

聞き手である聴衆もまた、この瞬間にそれぞれの頭の中で自分なりに返す言葉を考えて、その先を予想しながら、返答を待つ。そして受け手の返答が、自分が期待していたイメージに重なると、聴衆は役者のやりとりにのめり込んでいく。つまり状況への共感がおきるのである。

しかし、たとえば受け手が発し手の意図をうまく理解できないなど、意図の回収に失敗したり、受け手が意図は理解できてもそれをうまく文脈にのせきれなかったりすると、聴衆ははげしく落胆する。このあたりには、シナリオが先にある予定調和的な劇にはない、インプロならではの臨場感と緊張感がある。

むろん意図や予測はすぐには回収されなくてもよい。むしろ伏線として記憶され、思わぬところで再登場し、全く異なるふたつの文脈がひとつにつなげられると、聴衆はほっとすると同時に、なにか素敵な物語を手に入れた気持ちになれるのだ。

もし受け手の返答が、聞き手自身のイメージしたものよりも上を行けば、聞き手はそこに「すごさ」を感じる。実のところ、発し手の意図や聞き手の予想は、つねに受け手によって裏切られることが期待されている。さすが役者、そうきたか、やられたあ。インプロの面白さはそこにある。


などと、あまり理屈を重ねてもうまく伝わらないないかもしれないので、今回のお芝居の中で、もっとも印象的だったシーンに即して今の話を説明してみよう。

状況は男女の葛藤である。突然現れた占い師によって、「今年は子供を産まないほうがいい」こと、「南側の台所が悪い」ことなどの預言が発せられる。

さらにここで、事前に聴衆に書いてもらった用紙の中からランダムに「カタツムリの家出」というが選ばれた。さてさて、これらの素材を役者たちはどのように文脈化するのだろう。

「カタツムリの家出」最初の時点で、たぶん多くの観客は「ナメクジ」を想像している。ナメクジがどこかに出てくるはずだと期待する。しかしナメクジはなかなかでてこない。

それにたいして受け手はマイマイカブリの話を語りはじめる。カタツムリはマイマイカブリが怖くて家出するのだという。

やがてそれは、男性によって地域の治安が不安だから引っ越そう、つまり「北向きの台所がある家に住もう」という文脈に巧みにおとしこまれようとする。だが動き始めた会話は、それだけでは終われない。「今年は子供を産まないほうがいい」という占い師の重たい言葉は、女性側にとってはそんなハッピーエンドではとても回収できない話なのだ。このあたりで観客は物語の先行きにちょっと不安を感じる。

ここから新しいフェーズが出てくる。「カタツムリの家出」という言葉は、母体ぬけだした胎児、つまり堕胎というグロテスクなイメージに重ねられ再登場する。そこでようやくナメクジが出てくる。ナメクジとは堕胎された胎児なのだ。おおこわい。素材がすべて回収されプロット(物語の流れ)が完成した。やがて恋人同士のふたりのやりとりは、悲劇的な言葉の応酬に変わっていく。


「所与の言葉」から「説明の言葉」が生み出されていく、その流れが実にみごとだった。それはまるで、道徳心理学のいう「象と乗り手のたとえ」の種明かしを見せられているかのようだ。しかも、ここではまさしく、感情(所与の言葉)が理性(説明の言葉)を支配していく世界が演じられている。

うまく整理できていないが、会話のながれをつくるためには、いくつかの要素があるように思う。たとえば、おきまりのパターン、連想、はぐらかし、すりかえ、誇張などである。これらの要素を「機転=頭の回転」と言い換えておこう。即興劇では、発し手、受け手、聞き手の、3者の「機転」が試されている。役者だけではなく聴衆にも「機転」が要求されるのだ。聴衆の頭の回転に応じて、同じ会話が面白く感じたり、つまらなく感じたりする。


実は「面接でもこういうところがよくあるな」と、劇を見ながら思っていた。志願者の頭の機転がきかないと、せっかくの面接官の質問を生かし切れない。いや逆のケースのほうがより深刻だ。面接官の機転がきかず、せっかくの志願者の言葉を拾い切れていない。面接がマニュアルだと思っている人はたぶん、ふだんから他者の意図がよくわかっていないか機転を意識していない人にちがいない。

研究発表の質疑応答もそうだし、もっとえいえばふだんの日常会話だって同じことだ。会話の最中にすぐネットを検索する人がふえている。頭の良さを「知識」だと勘違いしているのだろう。知識とはここでいう「所与の言葉」にすぎない。だからいくらマニュアルやウィキペディアに頼っても、「文脈」を生み出すことはできない。

大喜利や音楽のセッションが面白いのは、磨かれた知識や技術の上に、みごとな文脈が組み立てられているからなのだ。つまり頭の良さは知識ではなく機転である。だから、ぜひ教育の中でも、相手の意図を読み取り、会話の流れをつくるいくつかの要素を上手に組み合わせる訓練をしておいた方がいい。人生の中でもっと真面目に即興のことを考えた方がいい。

所与の言葉や感情が「人生」だとすれば、説明の言葉や理性は「どう生きるか」ということになる。与えられた人生をどう生きるかを決めているのが、その場かぎり、一回かぎりの、即興というわけだ。演じられた即興劇を見ながら、つくづく「人生を生きるということは、そこに『ある』という状況ではなく、そこで『する』という状況、つまりは即興なのだなあ」と、そう思ったのである。