実習や学会の発表の前のプレゼンの練習の時に、よく私は「聞き手を飽きさせず注意を引くために3分にひとつはギャグを入れろ」とゼミ生たちにアドバイスをしているのだが、このアドバイス自体ギャグだとおもわれているのか、あまりとりあってもらえなかった。
むしろ「もっとギャグを!」といえばいうほど、「だめです、わたしマジメなんです」などと反発されてしまう。私は、「マジメにギャグを入れろ」といっているの……だ。さらにギャグ力が不足しているゼミ生に対しては、「今から3秒でギャグを言え」という特別なヴォイス・トレーニングを課したりもするが、これも「むちゃぶり」といわれ、はなはだ評判が悪い。
しかし、つい先日のゼミでフランス・ドゥ・ヴァールの素敵なプレゼンを見ていたときに、これまで私が気づいていなかった重大な誤解が明らかになった。
これがその映像である。
間髪を入れず笑いをとっている彼の話術に、私は「これだよこれ、いつも言っているのはこのトークなのだ」と鬼の首を取ったように主張したところ、ゼミ生のひとりが、「これはギャグではないのではないか」というのである。
「ギャグ」ではないとすればこれはなんなんだ!ビデオを何度か再生し、いろいろな角度から検討した結果、それはヒューモア、あるいはウィットとよばれるものと考えられることが判明した。フランス・ドゥ・ヴァールはヒューマニティの研究をしているだけに、ヒューモアにも長じていたのである。
しかし私自身、関西の短大で非常勤講師をしていた時代から、講義の中で受講生の学生たちから笑いの試練を課せられてきて、2年かけてなんとか人前で話ができるくらいまで鍛えられてきた。講義の感想のほとんどは「先生の今日のギャグはさえてました」とか「ギャグが面白くていいです」とかそのような教員評価ばかりで、当時の私は講義内容の準備よりも、どこで最高のギャグをかますのかを考える毎日であった。
こうした経験をとおして地味で内気な名古屋人の私が学んだことは。「関西弁にとってギャグはすべてである」というテーゼである。私は今の今まで、そのため彼女たちの言葉を信じ、あれら「笑いの仕掛け」をすべてギャグと呼び、大切にしてきたのだ。
しかし、実はそれが、ギャグではなくヒューモアだったとは。がちょびーん!
九州あたりではギャグというと、ある種のポーズを伴う意味不明のオノマトペであったり、親父ギャグに代表される駄洒落の一種だと解釈されてしまうらしい。
そもそも、わたしの考えているギャグには深い素養が必要で、あらかじめ前提となる幅広い知識や蘊蓄を欠かすことができず、鋭い対人観察によって培われてきた人間性をフルに使った臨機応変な知的なゲームのようなものである。
というわけで、これからの講義では「ギャグが足りない」とは言わないことにする。ゼミ生たちよ、君たちに足りなかったのは「ヒューモア」だったのだ!
そんな折も折。ソロモンの友人からこんなビデオを紹介された。意味はほとんどわからないけど。面白さだけは伝わる。
ついでに3年ほど前の搭乗中にオールブラックスの映像でおどろかされ、その後もいろいろユニークな映像で物議をかもしたニュージーランド航空が、この頃どうなっているかなと気になり、調べてみたらこんな事になっていた。
そしてこれは以前にちょっと問題になったやつ、ヒューモアもきわめるとかなり危険をともなうようだ。この人たちみんな裸なのね。
北九州のスターフライヤー忍者は東京に行くたびに見るけど、
みんなマンネリ化をなんとかしようと苦労している?デルタ航空はこんなの
ヴァージン・アメリカ航空はこんな事になっている、なんだか乱暴なところがアメリカらしい。
それに毎日おんなじことばかりしていると、心がもたないよね。ロボじゃなくて人間だもの。講義や研究発表も一緒、ライブなんだから人が生きてないとね。このサウスウエスト航空のラップ機内案内は、いわば労働から人間性の開放を謳いあげている。
こうした「機内安全ビデオ」はたとえ退屈でつまらないものでも、なんとかして人々の注意を引いて話をきいてもらおうというあたりで全力の勝負をかけている。だからある意味、いかに情報を伝えるかを考えるプレゼンの試金石として、とてもよい教材になるだろう。
そして今後、講義で、こうした映像を紹介するときには、「ギャグ満載」ではなく、「ヒューモアに富んでいる」と表現することにしよう。
さらに、ゼミ生たちには、これからは「今から3秒でヒューモアを言え」という特訓に変わるので、そこんとこもあわせてよろしく。