2017年11月25日土曜日

「野研!大学が野に出た」が刊行されました

ついに「野研!大学が野に出たーフィールドワーク教育と大學堂」の本が出ました。


九大出版です。在庫があるかぎりアマゾンでも買えます。


これまでの野研の取り組みの集大成をもとに「フィールドワーク教育とはなにか」を考えてみました。フィールドワーク教育に関して、これほど詳細にそして具体的に語られている書籍はほかにはないと思います。


研究から教育へ。組織づくりから創造へ。スキルからアートへ。これからの日本の教育のデザインを考えるための、先駆的な試みをめざしました。


そもそもこんな本が出版されること自体、おもしろいのですが、その内容も負けずとおもしろいはずです。この本を、とことんおもしろがってほしいと願っています。


新聞各紙も取り上げてくれました。

2017年8月31日 毎日新聞

2017年9月13日 読売新聞

2017年11月22日 朝日新聞


さて、野研の誕生は、この人なしでは語れません。重信幸彦さんからうれしいメッセージが届きました。書評として公開したいという申し出にお許しをいただいたので、かなり気はずかしいが以下に掲載します。


◆御無沙汰していて申し訳ありません。本日、東京理科大の葛飾金町キャンパスに講義に行って、ご著書『野研! 大学が野に出た』を拝受しました。ありがとうございます。一限目を10:20に金町で終えて、四限目15:00の芝浦工大豊洲キャンパス(金町から50分程度)の授業まで、いつもゆるゆる金町のおじいちゃんおばぁちゃんの集まる「地元喫茶店」でモーニングとランチを堪能しながら、仕事しぃしぃ時間を過ごすのですが、本日は、モーニングのみで、ランチの注文を忘れて、ひたすらご著書を読みふけり、かつ眺めふけり、なんども、写真をみながら爆笑し、これは見事にまるごと一冊「The竹川大介」だなと感服しました。

◆研究と教育を二分法で分けることの不毛を抉り、動くことと考えることと書くことが地続きの実践。いずれにしても、昨今の大学教育ばかりでなく、研究に対しても強烈なアンチテーゼ、ですね。

◆昔、畏友大月隆寛が、「まるごとの民俗学者」ということを言っていた時期があるのですが(今から四半世紀から三十年近くまえ)、久しぶりに、そのことばを思い出していました。まぁ、「まるごとの人類学者」もしくは「まるごとのフィールドワーカー」。これは、教育実践記録でもなく、研究の実践版でもなく、やっぱり竹川大介のフィールドワークの記録なのだと思います。自信を 持って、「竹川の仕事」として、提示すべし。あまたの「研究/論文」などより、はるかに跳躍力があると思う。フィールドワークというのは、本来、こうして他者を巻き込みながら、自分も他者も、何かを「わかり」ながら変わっていく過程なのだと思う。たんなる情報収集に終わってしまうフィールドワークなんざ、「けっ!!」という感じですね。

◆そして、長い試行錯誤のなかで、竹川さんがいろいろ思索を深めてきた痕が、そこここに刻まれています。たとえばフリーライダーなどは、こうした実践につきものであり、特に大学のなかにあって、単位などの大学制度とは一線を画し、「来るもの拒まず、去る者追わず」という野研の態度がぶつかる問題です。でも、竹川さんは、誰もが何かの役にたつ、と「フリーライダー」と名付けること自体を疑い、そもそもフリーライダーを生み出してしまうのは、集まり方の問題、プロジェクトのかたちの問題なのだと喝破しています。あちこちの街づくりなどの実践の現場などにも、同じような問題があるはずです。この野研の知恵は、きっとそうしたところにも説得力をもって届くだろうと思います。

◆何枚かの写真に、自分が写っていることを確認しながら、かつて北九州で、自分が、こんな「元気」の傍らに居たことを思い起し、しばし感慨にふけっていました。「グローカル」などという、どっちつかずなことを言わずに、ちゃんとグローバルに越境しながらもなお、しっかりと「ローカル人間に」と言い切る、〆のことば、大介の正面の宣言として受け止めて、200%賛同します。

◆僕は、一年に二回か三回ほど、福岡市には自治体史の仕事で出張するのですが、なかなか出張の規定が厳しく、北九州まで行けずに時間が過ぎてしまいました。「いつか大学堂に顔を出します」などという「ごかし」はやめます。いつ行けるか、わかりません。でも、そこに、これだけのエネルギーのある場所が、竹川さんを中心とし、なおかつ竹川さんを超えて存在していることに刮目しながら、ちょっと離れたところから、わくわくし続けています。

◆改めて、素敵な本を、ありがとうございました。最近、読んで元気が出る本に出合っていなかったので、とてもありがたかったです。そもそも、人文社会科学は、人の不幸は、根掘り葉掘り語るのだけど、「元気」が出る話を語ることは、不得意なのだということを思い知らされます。これはいい意味で、竹川さんに、科学者の想像力があるからなのだろうか、などと思ってもみました。

 いずれ近々、どこかでお会いできますことを。とり急ぎ御礼まで。
重信幸彦拝


さらに、この本を読んだ、とある博物館の館長と、とある大学の総長からそれぞれ丁寧なお返事をいただきました。しかも新刊本まで!篠原さん山極さんありがとうございます。

『京大式おもろい勉強法』『都市と野生の思考』
『フィールドワークの絶望と愉悦』


おふたりの本に書かれている事は、「おもろい」「共にいる」「野生とアート」「旅と余技」「人と自然」などなど、とても多くの視点が野研本に共通しています。まあ同じ人類学スクールのもとで学んできたのだから、重なる部分があるのは当然かもしれませんが、こうした指摘の中に今の教育や研究にとって、いや、この時代を生きていくために大切なことが、はっきりと示されていて力づけられます。


このごろは実践教育とかALとかいう名目で、カタカナ職業の”実務家たち”を呼んで、学生たちに社会見学のような研修活動(インターン)や奉仕活動(ボランティア)をさせるのをみかけるけれど、それで、はたして大学での教育や学びといえるのでしょうか?

学問的背景が希薄な、こうしたありきたりの社会活動の貧弱な実像(虚像)を、 これまでわたしは嫌というほど見てきました。それでも、しないよりましといわれるかもしれないけれど、むしろ学生たちの好奇心をつぶしてしまう害があるのではないかと私は思っています。仕事として指導している本人たちもどこか自信なさげです。なぜなら学問の「おもろ」さは、そんなお仕着せのプログラムの中にはないからです。


篠原さんと山極さんの本は、そういう意味でまさに目から鱗、おすすめです。とくに学生たちとどうやってフィールド出て行くのか悩んだり迷ったりしている人には共感できるところが多いと思います。
 

さて、「野研!大学が野に出た」のいろいろを数えてみました。カラー写真が653枚。文中の登場人物は総勢225人。写真にうつっている人はさらにたくさんいます。


竹川大介・木下靖子・大津留香織・今田文・重信幸彦・猪股萌子・田畑宏美・門馬一平・古藤あずさ・青柳亜紀子・大久保大助・命婦恭子・有松由衣・伊藤圭吾・井上広平・高柳亮佑・町田佳菜子・門屋裕和・梶原宏之・岩野俊郎・進麻菜美・仲村知佐子・田村慶子・藤原惠洋・矢作昌生・バックミンスター=フラー・きむらとしろうじんじん・伊東啓太郎・吉岡美紀・宮村早貴・近藤光孝・原口勇希・黒田陽子・三崎尚子・山城若菜・山田洋・重森誠仁・須藤康之・前田賤・村上英志・谷本仰・中尾一徳・張平平・長門屋よしこ・田村嘉之・南香菜子・本田真悠・濱本拓磨・カネコテツヤ・フクヤマワタル・伊計恒吉・伊谷純一郎・井上大輔・稲月正・印貢陽子・沖元絢香・岩野直子・亀井伸孝・吉田幸恵・近藤倫明・金子ユキ・原田悠貴・高坂明宏・今西錦司・坂本次郎・皿海弘樹・山口未花子・山田恵次・山本雄大・山里節子・室園優衣・漆原朗子・実近修平・篠原徹・小松良子・松井克宏・松岡怜央・松尾容子・照屋優海・植西あすみ・星子萌・盛口満・石村行・船江恒平・前田太郎・大嶋雄治・中村幸介・辻利之・田崎龍司・桃山邑・藤條虫丸・塙狼星・飯山庄之輔・布施咲子・武藤景介・末嵜陽介・木下薫・木原謙一・木野理恵・矢田俊文・纐纈あや・ナタペイ・トーナス=カボチャラダムス・バット・ミスター=ファイサル・阿津坂陽子・阿南惟正・伊藤泰信・井上克彦・井本将志・一丸英夫・稲富智子・奥野明子・岡部和慶・嘉原優子・河村雄太・岩崎蔵人・吉柳佳代子・久間直樹・宮里盛雄・宮澤京子・近藤紀代子・近藤史晴・金子有李・金城五男・金城国男・金谷美和・原田萌・古谷千佳子・後藤幸浩・工藤祐次郎・江尻圭佑・高橋明歩・高瀬靖史・黒瀬善裕・黒田末壽・佐藤克文・佐藤直子・細馬宏通・坂巻正美・坂本利春・三宅大児・山下あゆみ・山下修司・山極寿一・山口瞬太郎・山谷の玉三郎・山中さやか・山田順章・山本啓一・山本健太・山椒亭小粒・篠原正典・手嶋準一・洲澤育範・秋好裕子・秋道智彌・小出友視・小菅正夫・松永夕紀・松岡忠夫・松原緑・松田幸三・松田凡・上野敦子・上野由里代・新井真由美・新城康弘・人見五郎・水島結子・西田正規・西田利貞・青井美穂子・石神勉・石川仁・赤崎時子・赤松徹生・赤嶺淳・川原田徹・川端威士・川端慎治・前田俊彦・増永研一・村上靖治・多賀英志・大川留奈・大田勇・大平剛・竹ノ下祐二・竹川玄之介・竹内義博・中原藍・中瀬康志・中尾暢宏・長津一史・椎野若菜・堤高太郎・天下太平・田川大地・田中二郎・田中里佳・渡辺拓也・東亜紀・藤田祐幸・藤嶋嘉子・内山雅世・内藤直樹・白武佳子・白濱美南子・尾形愛・平安啓乃・平野俊衛・平良一樹・平良光男・片岡寛之・魔人幻一郎・有松由依・李仁子・鈴木克章・鈴木野歩・脇園賀子・淺枝隆・當間元・眞鍋和博・蔡謙・レオナルド=ダ=ヴィンチ

申し訳ありません。せっかく登場頂いたのに、あまりに人数が多すぎて登場したみなさま全員に献本できません。献本分はいつも本を送っていただく方とお金のない学生を優先し、さらにこれから野研にはいる学生たちにも少しだけ残しているような状況です。


お届けできない皆様ごめんなさい。でもぜひ読んでほしいな。野研の宝は人と人とのつながりです。


リストをあげながら、何人かの大事な人が抜け落ちているのに気づく。あれれ?私は?と思った皆様、さらにごめんなさい!!


というか予算の都合とシリーズの事情で、半分くらいエピソードを減らしています。私自身の研究や、学生たちの研究に関連するところはずいぶん削りました。


たくさん売れて増補新版がでることになったら、そのあたりを必ず書きます。応援ヨロシクお願いします。


2017年10月16日月曜日

敗北の思想を友人から叱られた

大学時代から敬愛している友人から手書きの手紙(メールではないのが、この友人のすごいところだ)が届き、「共謀法」の採決が強行された日に私が書いた「敗北の思想」を叱られた。8月の終わりの頃。正確に言えば、多くの人たちががんばっているのに、まだあきらめるのははやすぎると丁寧に指摘された。そして政治不信になるようなことを書き、人々の政治への意欲を減退させ、まるでこの先は他人のせいであるかのごとき文章は、それ自体無責任であると厳しくたしなめられた。

その通りだと思う。こんな友人の言葉はなによりも有難い。


共謀法が可決され、誰もが次の戦争を口にするようになり、政治が私物化され、国をしばる憲法と国民主権の民主主義がないがしろにされ、排除と差別と暴言が容認される世情になっても・・・。

それでもたぶんひとりひとりの私たちは選挙に行くしかない。

愚かな大人たちがまた戦争を始めようとしている。止めるのか止めないのか。もし止めたいのならば、その機会が失われる前に、すべての選挙区で戦争への選択を、ひとつずつ止めていくしかない。

これは、どこかの幼稚園児のように、安倍総理万歳と口をそろえ、なにがあろうと日本一番を叫ぶ人々に向けた言葉ではない。ましてや虚言をもてあそび、戦争利権をむさぼりたい死の商人たちに向けた言葉でもない。

株が上がったといっては喜び、年金生活に安住する人々も、仕事に悩み今の生活に汲々としている人々も、マスコミが連日報道するヒアリやミサイルや原発の不安におびえる人々も、もし日本の安寧を考え、子孫の繁栄を願うのであれば、少なくとも、それは戦争への道ではないはずだ。


たしかにもはや、選ぶべき政治的な可能性はきわめて限られている。しかし、その機会が完全に奪われる前に、もし状況を変える力がまだ少しでも国民の側に残されているのならば、それを身近な友人たちと語り、そのわずかな可能性にかけて、もう一つの道を自分で考えるしかない。

政治の話だからといって、ことさら沈黙し敬遠しなにか後ろめたさを持つのは、逆に為政者の思うがままだ。よくわからないのであれば、なおさら真剣に疑問をぶつければよい。スマホや車や服を選ぶときのように、政治について隣人と愉快に話せることこそが自由な社会の証拠である。無知が悪いのではないし、なにも難しいことはない。それどころか選ぶべき政治家のスペックは、きわめてシンプルで、素朴で、だからこそ重要な問いから決まるものなのだ。持って回ったような知ったかぶりや、パワーゲームのような駆け引きはまず疑うべきである。

このまま加計や森友学園などの政治の私物化を許すのか。私たちの自由を縛るための秘密保護法案や安保法制や共謀法を許すのか。経済格差をすすめ一部の金持ちが多数を支配する社会を許すのか。


許すのか、許さないのか。その先にあるものはなにか。それが戦争への道とどうつながるのか。

そんなまっとうな疑問を携えて、私たちは選挙に行くしかない。今の政治の制度の中では、それぞれが住むすべての小選挙区で、一票づつその答えを選んでいくしか解決方法はない。そう、これは人任せではなく、誰もが関わる問題である。スマホや車や服を選ぶとき以上に。およそ凡庸な私たちが、すべての選挙区で、そのなにを選ぶかで、私たちの未来が決まる。

2017年5月19日金曜日

凶暴な政治が行進する夜に

 だからこれは、もはやまったく敗北の思想で、負け犬の遠吠えといわれてもよい。もともと勇ましいことをいう人間でもないし、楽観的でもない。むしろかなり前から悲観的だった私が、それでも今もこうして政治について語っているのは、何とかしたいという気持ちよりも、結局は未来に対する言い訳にすぎないと感じている。

 せめて未来の子孫たちに、当時の(つまり今の)私は、この政治状況をまったく認めておらず、なんとか止めたいと思っていたことだけでも伝えておきたいと考え、たぶんこんなものを書いているのだ。

 私の身近な知人たちは、この竹川大介という人間が、およそ政治向きではなく、むしろ普段は無党派もいいとこで、つるんだり徒党を組んだりする人になじまず、長いものに巻かれようとする付和雷同を何より嫌い、たとえば学内政治にも派閥争いにもほとんど関心がない人間だということをよく知っている。

 実際、政治的な振る舞いや党派性は昔から苦手で、特段の思想や信条やこだわりもなく、まあ、しいていえば科学主義者であり合理主義者であり個人主義者であり自由主義者だろうか、あるいは冗談のように食と自然とアニミズムを信奉するなどという。そして集団よりは個人を、マジョリティよりはマイノリティを、党派組織よりはネットワークが大切だと考えている程度の人間である。

 基本的にはどんな組織でも、どんな権力でも、巨大化すれば必ず腐敗すると疑っており、神や宗教にも期待を寄せず、カリスマやアイドルにも無関心、しかし決して人間不信ではなく、最終的に信じるべきは、身近な人との個人的な信頼関係だと考えている。

 普段の姿勢がそんな私だけに、よくこんなふうにネット上で政治のことを書くのがかえって不思議だと、ときどき言われる。それは、どうしてなのかと尋ねられることもある。


 たいした理由はない。シンプルにお昼ごはんや、小動物や、旅行の話題と同じように、自然に政治の話ができるような社会が健全だと思っているからなのだ。政治の話だけがタブーだなんて、なんだかそういう考え自体が、まるでだれかに都合よく洗脳されているみたいで、とても気持ち悪いのだ。

 それは小学生の時だったか中学だったか、「治安維持法」という法律をはじめて学校で習った。やがて多くの人々を苦しめ死に追いやる全体主義と監視社会が大日本帝国をおおい、日中戦争から太平洋戦争へと破局に向かわせた、その最初のきっかけが治安維持法だったと習った。しかも広島と長崎に原爆が落とされるまで、日本人自身の力でその状況を止めることができなかったのだと。

 そのころの私は、どうして当時の大人たちがそんな恐ろしい状態を許し、どうして途中で止めることができなかったのか、それが本当に不思議で不思議でしかたなかった。

「人々は悪い権力者に騙されていたのだ」と説明する大人もいた。
「熱狂に浮かれて判断力を失っていたのだ」と説明する大人もいた。
「政府は報道を管制し反対する者の口をふさいだのだ」と説明する大人もいた。
「昔の人はいろいろよくわかってなかったのだ」と説明する大人もいた。

 だれの説明が正しいのか解らなかったが、とにかくまたそういう社会になったら、とても嫌だなと思っていた。

 大学に入り、民主主義が全体主義におちいるメカニズムについても考え、腐敗した権力が最も好む状態が暴力であり戦争であることも知ったが、どうすればそれを止めることができるのかを考えているうちに、現実の政治が再び一人歩きを始めた。

 今の日本の方向性は、明確に間違っており私たちの未来を危険な方向に導いている。たとえそうだとしても、きっとどうにかなるはずと考えるほど楽観的にはなれない。この日本の政治的な腐敗と劣化は、今に始まったことではなく、すくなくとも20世紀末の小渕内閣のころから一貫して進んでいる。すでにもう20年近く止められていないのだ。

 ただ今日は歴史の記憶として書いておこう。2017年5月19日組織的犯罪処罰法という名の「共謀法」の採決が強行された。自民党と公明党と日本維新の会の議員は全員それに賛成し、法案は可決された。

 権力を握り暴走する為政者とそれを支持する人々の熱狂に対して、個人の力など無力である。そのうえマスコミすら権力になびき、反対者が排除され、監視によって異論が封じられることになれば、社会は沈黙にむかい、ますます真実など見えなくなる。

 さほど遠くない未来に、私は黙ってしまうかもしれないし、黙らされてしまうかもしれない。

 選挙という「民主的」な方法で多数を握った政治家の、好き放題な横暴と虚言、それを簡単に許してしまう私たち。私は子どもの頃の「なぜ」という疑問にまだ答えられていない。ほんとうに未来の子孫たちに申し訳ない気持ちだ。そして多大の犠牲の上に70年間平和を守ってきた祖先たちにも申し訳ない気持ちなのだ。

 だからこれは、もはやまったく敗北の思想で、負け犬の遠吠えといわれてもよい。もともと勇ましいことをいう人間でもないし、楽観的でもない。むしろかなり前から悲観的だった私が、それでも今もこうして政治について語っているのは、何とかしたいという気持ちよりも、結局は未来に対する言い訳にすぎないと感じている。

 せめて未来の子孫たちに、当時の(つまり今の)私は、この政治状況をまったく認めておらず、なんとか止めたいと思っていたことだけでも伝えておきたいと考え、たぶんこんなものを書いているのだ。

2017年5月5日金曜日

ミツバチの分蜂


今年は例年になく椎の花が多い。


数年に一度こんな年がある。


みつばちの分蜂と関係があるのだろうか?


散歩から戻ると


なんとまたしても分蜂。すでに5回目。


すべて捕獲しているので「放課後みつばち倶楽部」の蜂はすでに7群


大学におききれないので、近くの民家に移動した。

それはIにあらず、Gなり

愛国者を自称する人々ほど自国の評判を貶めている。いっけん矛盾しているようだが、愛している自分のことしか考えず、相手から愛されようとはしていないとい う点で、ストーカーと同じメンタリティである。それは愛とはほど遠く、自身の慰めのために相手つまり国家を利用しているだけである。いや、それどころか、他人を憎まなければ自己を愛せないような情など、もはや我執でしかない。

喝!


愛することの危うさを歌姫はうたう。「愛した人の数だけ 愛される人はいない、落ち葉の積もる窓辺はいつも同じ場所と限るもの」。愛そうと思うよりも、愛されたいと思う方がいい。そんなこと、「わかってるけれど  わかりきってるけれど ・・・ うらやましくて うらやましくて 今夜は 私 泣くと思います」

喝!


愛国者を自称する人々に愛の不条理が理解できるだろうか。愛国者を自称する人々におかずにされ、真の愛を失っていく我が祖国よ、あわれなり。人を愛するよりも、愛される人になる。国を愛するよりも、愛される国になる。その切ない悲願を、土足で踏みにじる者たちよ、その口から愛を語るたびに自らを恥じよ。

喝!

2017年5月3日水曜日

亭主、お茶を煎る

なんでも自分でやってみないことには、納得しないこの亭主


とつぜん思い立ち、新茶を摘む



蒸籠でさっと蒸したあと


フライパンにクッキングシートをのせて弱火であぶり


もむ


あぶりながら


またもむ


水分をとばしながら、もむこと1時間、だんだん乾いてきた


みためはこんなんだが、味は


なかなか、亭主もようやく納得し一杯

2017年3月14日火曜日

いい乳酸菌・いい大腸菌?

竹川 大介
いい乳酸菌をとるための食品の話はよく聞くけど、いい大腸菌のための食品の話はまったく聞かない。なぜ?どちらも腸内細菌なのに。わかる人おしえて。




 垂水 源之介
常在菌としての大腸菌は、基本的には害をもたらしません。それが、近年の腸内環境の変化や家畜にも存する大腸菌が家畜の飼料の影響(例:乳や肉の生産のためにたんぱく質を混入するようになりセルロースを溶かす菌との変な競合関係をうむ)、悪さをするようになった(=変異が選択された)のです。動物と長く共存してきた(まさに大腸に常在する)大腸菌は、腸内ではぜんぜん悪さをしませんが、腸の外部や、腸内の傷などには他の最近と同様感染症を引き起こす原因になります。乳酸菌は、乳を醗酵させる菌ですが、これも細菌の一種ですが、大腸菌ほどは有害度は少ないだけです。腐った牛乳(乳酸菌以外の細菌が優先する)は当たりますが、チーズやヨーグルトが当たらないのはそれによりますが、ゆるくなりだめな人もいます。ゆるくなるのは、腸内の活動に刺激を与えるからでで、乳酸菌そのものが悪いわけではありません。

 竹川 大介
多くの大腸菌が悪さをしないのはよいのですが、お腹によい大腸菌をとろうという話にはなぜならないのでしょうか?これが問いです。悪い大腸菌と良い大腸菌の区別がつかないから???



 大塚 泰介
「乳酸菌」は乳酸発酵をする様々な細菌の総称ですが、「大腸菌」は1種の細菌の名称です。また有害な大腸菌は、だいたいが他の細菌の毒素などの遺伝子を形質導入されたミュータント株です。おそらく、ご質問の答えのヒントはこのあたりにあります。

 竹川 大介
 ラクトバシラス「属」ってことかな。大腸菌は1種。良いやつがとつぜん悪く変異するのかな?

 大塚 泰介
 これが不思議なのですが、バクテリアでは遺伝子の一部が、ウイルスに取り込まれて、あるいはプラスミドに組み込まれた状態での「接触感染」によって、他の種のバクテリアに取り込まれることが、まれにあるよぅなのです。すると、他種のバクテリアがもつ毒素産生に関する遺伝子が導入される可能性もあるのです。

 大塚 泰介
 よい解説がありました。
JA.WIKIPEDIA.ORG

 竹川 大介
 良い株と悪い株は「生化学的性状では区別できない」のね。



 竹川 大介
 ネットにはおおくの大腸菌は無害とあるけれど、大腸菌って何の役にもたっていないという意味なのかな?つまり良い大腸菌なんてない??

 大塚 泰介
 それはわかりませんが、通常の大腸菌は、少なくとも腸内で悪さはしていません。ただ、腸内で優占しているわけではありません。うんこの半分以上は細菌でできていますが、ひり出されて空気に触れた瞬間、腸内細菌の大部分を占める偏性嫌気性細菌(酸素があると生きていけない細菌)が死に絶えるために、生菌検査では酸素に耐えられる通性嫌気性細菌の大腸菌が中心になるのです。

 安渓 遊地
 カミサマは、わたしたち大腸菌が増えて栄えられるように哺乳動物をおつくりになったのです。

 竹川 大介
 人間が大腸菌の役にたっているわけですね。まあそれでもいいですね。

 安渓 遊地
 みんなキョウダイシマイでおたがいさまです。チーン。

 竹川 大介
 まあ、たいていの生物は人間とはまったく関係なく生きているわけですから。何でもかんでも人間にとって有用なのがいいという有用思想も、たしかになんか変な気がします。とくだんよくもわるくもないというのが普通で、なかには片利共生というのもあるので、もしかすると細菌にとって有用な人間になりたいという思想があってもいいわけですね・・。だからといって死にたくはないけどね。死んだら細菌くんだって困るはずよ。



 垂水 源之介
 多くの大腸菌が悪さをしないのはよいのですが、お腹によい大腸菌をとろうという話にはなぜならないのでしょうか?これが問い>>エコシステムの問題でしょう——極相林と人工林(植林)のちがい。

 竹川 大介
 乳酸菌が極相林で大腸菌が人工林という意味でしょうか???



 吉田 拓也 
いわゆる善玉菌の定義は宿主が健常な時の細菌叢に比較的多く見られる菌で、指標的な意味合いも強いです。善玉菌を増やす方向の働きかけ=宿主を健常な状態に保つ働きかけとなりやすいです。
大腸菌はわずか居れば役割は十分(少なくとも大腸内容物の消化、時に病原性を持つ大腸菌自体への免疫誘導などで役には立ってます。他にもまだわからないところで色々役には立っているはず。)で、大腸菌が必要以上に増えている状況は腸内環境が悪い(様々な細菌が協働で腸環境を利用調整して内容物を分解する状況から逸脱している)状況ですから、腸内の大腸菌を積極的に増やそうということにはならないのだと思います。



 石黒 
「マイクロバイオームの世界」とか「腸と内臓」とか読むとわかりますが、積極的によい大腸菌をとることも行われています。今のところ、深刻な自己免疫疾患に対して、ゲリラ的に、というところのようですが。ただし、とるのは腸内細菌であって、大腸菌ではないです。

 竹川 大介
 え?よい大腸菌というのもあるのですか?あ、じゃなくて腸内細菌ですね。

 石黒
通常は、人体に有益なことをしています。ので、免疫で排除されない。しかし、免疫が弱ると悪さもします。あちらは、あちらの都合で生きていますので。ただ、腸や皮膚に常在菌がまったくいないと、健康に生きていくのは困難とされています。

 竹川 大介
 大腸菌は基本役には立っているけど、条件次第で悪さもする?乳酸菌はおよそ役に立つだけであまり悪さをしない?いやいや、でも虫歯の菌だって乳酸菌だから、こちらだってケースバイケースですね。あちらもあちらの都合がありますからね。



 竹川 大介
 吉田さん>
なるほど!ストンと腑に落ちました。つまり大腸菌はあまりにありふれていて指標として使えないけど、乳酸菌は環境で差が出やすいので指標として使われているということですね。とても説得力がある説明だと思います。
そしてこの説明によって、手段としての指標が、目的になってしまっているという転倒現象も理解できます。
医療や教育業界では起こりがちなことだけど、たんなる指標として使っていただけのものが、まるで金科玉条のようにあつかわれ、最終目的になる。もちろん、確かにこれで有効なときもあるけど、ぜんぜん意味のないことも多い。この手の言説がけっこうトンデモ系に走りやすいのはそのせいですね。

 竹川 大介
 例を考えてみました
名前に「子」がつくかどうかを指標にすると、女子の学校の成績に差が見られる(これは日本のある時期に本当にこういうデータがあったのです。そしてこれ自体は正しいデータでした)、それがテレビとかに取り上げられ自分の子供に「子」をつける人が増えたとか。
ホタルは水の浄化の環境指標に使われると知り、ホタルを別に養殖して川に放す(同じようにサンゴの移植もこれにちょっと似ているところがあって危ない)とか。
お腹のまわりがなにかの指標にされるので、身体測定の時に一生懸命に息を吸うとかね。

 河村 雄太
 テストの点数もそうかも知れません(^^;

 竹川 大介
 まさにそのとおり。単に好奇心や知的能力をはかる指標なのにそれが目的になっている。いまにギャグの回数でIQがわかるなんて研究がでれば、きっとギャグの塾ができて、吉本が難関校になります。