2016年11月28日月曜日

石鎚の山へ曽我部さんを再訪する

北九州から愛媛には毎晩フェリーが通っている


石鎚黒茶の最後の継承者、曽我部夫妻さんをたずねる


2014年の春に石鎚の山道を40分ほど歩いた中腹に住む曽我部夫妻に出会った。


90を越えるふたりは、この山の中で焼き畑をしながら自給している。



山の道に石垣が積まれ、きれいに整備されている。。急に景色が開け曽我部さんの家についた


しかし、家には誰もいなかった。ふたりは山を下りてしまったのだろうか。


以前に訪ねたときにお茶を入れてくれた縁側に座る。生け垣が高くなり石鎚山が見えなくなっていた。


焼き畑には、新しく植えられた杉が育っていた。


裏庭にはゆずが、たわわに実をつけていた。


石鎚山の頂には、うっすらと雪が積もっていた。


消沈して山を下る。かつての石垣で囲まれた田畑に杉が育っている。


摘まれることのないお茶の木が自生している。


ニホンミツバチの巣箱が置かれているが、ハチの姿はない



人が住まなくなった村に、ぽつんとのこる寺


古い墓石だけが、当時の歴史を伝えようとしている


なぜか童子や童女の戒名が多い


文久や文政にこの村でなにかあったのだろうか


おそらく1000年以上続いたこの村の歴史が、今このわずか10年ほどで消えようとしている。


ここだけではない、日本中の多くの山村で、今まさに同じ事が進行している。


車道まで降りてきたが、このあたりもずっと廃屋が続く


曽我部さんの消息をしりたくて立ち寄った「山の駅」に、地域おこしをしている元気な面々がいた。とつぜん新市長もあらわれて話が盛り上がる。



お茶やハチミツや焼畑など、昔の暮らしで生きていた山の知恵の中には、大切な文化資源がたくさん残っている。それを生かしながら次の世代に継承できる方法を考えたい。


まぼろしの石鎚黒茶は地域の女性たちと作業所の人たちが継承していた。しかしまだ曽我部さんの味にはならないという。


古い起源を持つこの発酵茶が、多くの人々に注目され、西条の人々の自慢の一品になるときがきっと来る。

2016年11月23日水曜日

鉱山の廃村


口では廃墟が怖いと言うくせに


8人も集まった


変なもの連れてきても知らないからね


小雨の森の中を歩く


大学から自転車で40分のところにある鉱山の廃村


森の中に家々が埋もれている


それでも人が生活していた匂いがある


鉱山で仕事をしていた人々


教科書もある子どももいたようだ


半ば崩れかけた廃屋の中には


狸が住んでいた


まさに狐狸庵


そんなものを手にして大丈夫なのだろうか


車が森に食われている


散乱する雑誌


謎の白い粉


薬品がはいったビン


「これより立入禁止」ってどこから?


奇病難病


そして「警告」


ガラス戸の中に人間のような姿がみえる


「やばい。やばい」といいながら


だれも本当にやばいものに気づいていない。


ほんとうにやばいのは、このお墓


無事大学にもどったがひとり足りない・・・。


2016年11月14日月曜日

シンポジウムを終えて

朝早く、参加した市民の方から、「結局は、今の魅力的な旦過市場をつぶす気なのか、裏切られた思いだ」という電話を頂く。ショックである。


新しい試案がそのまま実現できると考えている人は、再整備委員会の中ですらひとりもいない。現実的に市場の中の合意形成も容易ではない。春に試案が出されたときに、市のコメントをそのまま流してしまったマスコミの報道は、全くそうした背景を見ていなかった。


現実に1つの案が進んでいく中で、それに納得していない多くの人たちがいる。そういう人たちの意見に耳を傾け、より多くの人が旦過という場所に誇りを持ち、市場を応援してくれるような姿を示したいと考えている。


いみじくも森尾会長がいっていたように「一番良いのは今の市場がこのまま残ること」である。それと同時に、「このままではだめ」で、老朽化対策や衛生面など魅力ある公共空間として環境整備を進める必要がある。それに異論を持つ人はひとりもいないだろう。市が描いた災害対策という被害者視線の絵をいくら強調しても、それをそのまま鵜呑みにする人はいないし、その発想からはよいものは生まれない。商売人はもっとしたたかだ。



「治水もするけれど、市場も残す」それは不可能ではないと思っている。いや、それどころか水辺と市場にはもっと多くの可能性があるということを、今回のシンポジウムで示されたのではないかと思う。



だから、これは市場の存続にとってピンチではなくチャンスなのだと思ってほしい。



たしかにシンポジウムの中で、再整備案に対する明確な意見や対案はあえて出さなかった。だから、歯がゆい思いをした人も多かったと思う。誤解を与えてしまったのは、さまざまな人の顔を立てた結果かもしれないけれど、多分にわたしの力量不足で、がっかりさせてしまったことはとても申し訳なく思っている。しかし行間を読んでほしい。そして、これだけの人があつまったということが、重要な第一歩と考えてほしい。


たとえば、最後の発表者である浅枝さんの「ウエットランド案」などには、講演のあとも多くの人から反応があった。私がイギリス住んでいたときもちかくにメドウ(Meadow)とよばれる遊水池が沢山あり、雨の多い季節は湿地で、夏になると多くの人々に愛される草原が広がった。たしかに、とても魅力的で現実的で有効な提案である。役人と違い、商売人は融通無碍に機をうかがう。いや、役人だって現実を知っている人はもっと柔軟だろう。こんなことを考えはじめると、おとしどころはまだまだ沢山あるように思う。


今はまだ駒を並べただけで、勝負所ではないと思っている。「市民の意見」という駒が手に入ってはじめて、そうした大きな話も可能になる。その時には、市も国もマスコミも味方である。



私は主催者として白か黒か、賛成か反対かから考えるのではなく、もっと大きな視野からスタートしたいという思いを語ったつもりだ。シンポジウムに込められたさまざまな文脈がどこまで伝わったのだろうか。やはりすこし、むつかしかっただろうか。


さまざまな困難や思惑や利害関係を、いったんサスペンド(宙づりに)しながら、よりよいプランに集約してく、それが私が考えるタンガメソッドである。


すこし自画自賛を許してもらえるのであれば、そういう意味で、このシンポジウムがおこなわれた11月13日は、旦過市場にとって歴史的な日になるだろうと思う。参加した人たちはその歴史に立ち会ったのだ。多くの人が集まり、目撃したということに意味があるのだ。


奇しくも同じ日に、旦過市場の未来を示す、もうひとつの歴史的な出来事があった。旦過市場全体を使ってハリウッド映画の撮影ロケがおこなわれたのだ。これも初めてのことだ。


大阪を舞台にした終戦直後の日本をえがく「ジ・アウトサイダー」という映画で、当初は大阪と東京でロケをする予定だったのだが、マーチン・ピータ・サンフリト監督が旦過市場をとても気に入り、北九州ロケが決まったと聞いた。


制作の人は、これだけの風景を、もしセットでつくると、3億円くらいかかるともいっていた。

 

皮肉なことに、北九州市民や行政や市場の人がそうした価値に気づく前に、先にアメリカの映画会社が旦過市場の価値を認めたのだ。その目利きはさすがである。それは、このシンポジウム以上に意味がある、予定外のサプライズであった。


旦過市場のもつ可能性は、水辺の生態系サービスに限らず、この街にこれからもさまざまな経済効果を生み出していくはずである。


電話をかけてきた方が17日に大學堂を訪ねてきました。電話とは違い温厚な方で、はなしをすると私たちの趣旨を良く理解してくれました。