2015年11月25日水曜日

ノマドないちにち

 長津さんをお招きして「国家を越える人々−越境の文化論」という演題でシンポジウムをおこなった。私と長津さんは、20代の頃に同じ雑誌の同じ号(季刊民族学74号)でエッセイデビューをしたという古い縁があり、共通の友人も多い海人研究の盟友でもあるが、実際に親しく会うようになったのはほんの最近のことである。

 講演では華人研究の田村さんも参加して、国家と移民と境界の問題を多方面から議論した。


私の発表はこんな感じで始まった。「空はだれのもの・海はだれのもの・土はだれのもの」


まず80年代以降、私がおこなってきたソロモンと石垣と宮古の事例をあげ、海の人々がどのように境界を越えて生きているかを報告した。しかし、これは決して素朴な伝統社会の民族学的ノスタルジーの話ではなく、国家を越えるためのしたたかで戦略的な話につながる伏線である。


 さて、国民国家のシステムは、すでに20世紀後半から回復不能な破綻が進行していると、私は常々考えている。さらに21世紀に入り国民国家はネオリベラリズムとむすびつき、まるで社会主義の最期の時のような無謀な政策を繰り返し、必死に延命を計っているのが今の姿である。つまり現在のような戦争の再生産によってかろうじて維持されるような国民国家は、すでに断末魔といってよい状態であるといえる。


 ネオリベラリズムもリバタリアンも自分たちの帝国を築くことができれば、いずれ国家を見限るだろう。それを一番意識しているのは、アメリカや中国であり、一番勘違いしているのは日本かもしれない。

 実際のところ100年先の国家はまったく想像できないし。30年先でも怪しい。しかも国家というのは原発の廃炉並みに危険なものであるから、慎重に解体するにはずいぶん時間がかかるだろう。


この先、領土の意味が失われボーダーが消えたときにどういう世界システムが可能になるのだろうか。越境する海の民はその知恵を持っている。スケールフリーのネットワーク社会では、素朴な遊動民とグローバル社会のノマドはまったく区別できない。遊動の原動力は、いつの時代でも「資源」であり「市場」なのである。

 これら流動化しネットワーク化した越境社会のモデルから、どんな未来のシステムを築くのか、それは現在を生きる私たちひとりひとりの世界観や哲学にかかわる問題でもある。くりかえすが、そのときもはや、あてとなる国家は存在しない。

 最後に、とても大切なことをひとつ書いておこう。競争と独占だけがネットワーク社会や越境社会の帰結ではないということだ。では他に何があるか。その答えを知りたければ、この先をもうすこしだけ読んで欲しい。海の民が教えてくれた秘密。


 というわけで、講演や文章からだけでは伝えられない、ノマドな1日を紹介しよう。



 ノマドの料理。講演が始まる前に近くの河原でたき火をして、メラネシア式石焼きでクマラとニワトリの丸焼きをする。人口百万人の政令指定都市の中にも、ノマドはこうした空間を見つけだす能力をもっている。



 ノマドの宴会。市場(いちば)経済における宴会は離合集散を繰り返し、きわめて自由度が高い。東京から来たノマドのみならず、尾道から来たノマド。サラワクから来たノマド。はじめてあったノマドたちは一期の邂逅を楽しむ。


ノマドの朝。ノマドの朝はセリで始まる。多くの人は知らないかもしれないが、競争と独占だけが市場ではない。共感と共謀の方が実際にはとても重要なのだ。まさに今朝のセリもそんなノマドな感じに終わった。
 

 ノマドの原風景。ノマドの故郷には境界がない。「ここから見える風景はすべて君のものだぁ」なんて叫んで、ちょっと照れてみるのも、またノマドである。



 ノマドの仕事。ミツバチ社会は、いわれているような管理社会のモデルではなく、実はきわめて完成度が高いネットワーク社会なのである。それは低コストで柔軟で強靱な社会システムだ。


 ノマドの昼。大學堂での特大カツオのたたき丼、なんとこれでたった500円。これこそ究極の市場(いちば)原理。海洋資源の搾取、市場至上主義の権化なり。どうだ、ノマドのおそろしさが、これでわかったであろう。