2014年6月3日火曜日

野研と風狂について考える

創作と制作

つくづく、むつかしいなと思う。


九州フィールドワーク研究会(野研)は1999年に発足した。野研とは、フィールドワーク研究に興味を持つ人たちのための研究会。学生も社会人も関係なく、ひとりでは実現が難しい野外活動や調査研究の実践と情報交換をするために集まっている。山、海、村、街が野研のフィールドだ。自然や人間からうまれる文化や芸術を野研のメンバーはみな愛している。


野研では、メンバーのひとりひとりが今やろうとしていることそのものがメインの活動であり、スター★ドームも大學堂も、これまで蓄積された野研の活動の副産物のひとつに過ぎず、決してそれらを維持するために今の野研があるわけではない。


野研には、これまでの活動の実績を評価されてか、不思議な人脈を経由していろいろなイベントや企画の依頼がくる。でも、ときおり感じる違和感がある。どうやら野研の活動と依頼者が望むイベントとは、共通する接点をもちながらも、根本的なところがなにか違うのではないかと思うことがある。そして、そこがよく誤解の原因になる。


野研では自分が楽しむために人を誘う。自分が楽しくないものは、ほかの人だって楽しくないだろうと思う。つまらないことに時間を無駄にする必要はないと考える。むしろ自分を表現したい人たちが集まっている。野研が目指しているのは「創作」である。


イベントが好きな人は、イベントをして人を集めることが好きである。イベントそのものが好きである。自分は裏方にまわったり、影の仕掛け人になったり、自分よりもほかの人を喜ばせることが好きである。イベントが好きな人がめざしているのは「制作」である。

同好の輩

先に書いたように野研には大学生だけでなく長く関わっているいろいろなメンバーがいる。同時に大学に拠点を置く野研にとって卒業と新入の新陳代謝は宿命であり強みでもある。毎年毎年、新しく来た人がその才能を伸ばす場所にしてくれればと熱い期待がかけられる。その一方で野研にあまり価値をみいだせなければ、だまって立ち去ってもよいという冷めた思いがどこかしらある。どちらせよ本人次第なのだ。野研にはなんの義務もなければ、なんの縛りもない。


むしろ心構えとしてもっとも大切しているのは、新しい人たちが自分でなにかをはじめる前に、受身にならないよう気を使うことだ。すでにいろいろなことをやってきた古くからいる人たちを前に、新しい人たちが遠慮したり萎縮したりしないように、関係性づくりにかなりのエネルギーをかけている。野研のような場所にとっては、古くからいる人と新しい人が、互いに敬語を使わないでも、同好の輩として対等な立場で議論できる関係を築くことが、常に新しい創作を追求するために不可欠な要素だからである。


それでも中学生からかけられた日本文化固有(たぶん韓国もね)の先輩後輩関係の呪縛を解くのはたやすいことではない。とくに体育会系の風土に育った人は、新しい人にとっても、古い人にとっても、思いの外、困難な課題のようだ。さらに、そうした野研のスタンスをまわりの人に理解してもらうには、もっと大きなエネルギーがいる。


野研ではメンバーになった瞬間から、プロとしての仕事を意識するようにと言われつづける。だれかのお手伝いではなく、結果も責任もきちんと自分で引き受けられる仕事をするように求められる。これは自分の行動を、だれかのせいにできないということだ。はじめからうまくいくとは限らないが、そうした活動を通じてメンバーは成長し、野研は周囲の評価と信用を築いてきた。


同時に、その道の達人や面白い人をリスペクトし、こちらもそれを越えるなにかを作っていく。相手を尊敬するからこそ相手のために自分の能力を使う。しかし、同時に何とかして相手からの尊敬も勝ち取る。ずうずうしく傲慢かもしれないが、自分もひとりのアーティストとして成長するためにはこの道しかない。そしてこれは、互いの尊敬がなければ成り立たない世界である。


旦過市場の中で大學堂がうまくやれているのは、市場の人たちが大學堂を単なる学生のボランティアだとは考えず、ユニークな個性と能力をもった一人の店主としてあつかってくれているからだ。成功の秘密はそこにしかない。


内に対しても外に対しても、同好の輩として共通の志を感じてくれる人は、同時に野研のメンバーをとても大切にしてくれる。そういう人とは、これからもずっと一緒にやりたいと思う。


負の共犯関係
でも、このごろはすこし、むつかしさを感じている。

かつては・・・たぶんまだ10年くらい前までは、そういう変な若者を面白がり愛でる風土が日本にはあった。若者も若者で無軌道で無茶なことを実現するのが、自分たちの役割だと思っていた。少なくとも今いる大人はそうやって大人になってきたはずだ。


就活、就活、とさわぎはじめたあたりから、日本中で変なことが進行し、もう止まらない。


いつのまにか、若者たちは、お金や報償で人に使われることをほとんど疑わなくなった。あいた時間はすべてアルバイトにつぎこみ、就職に有利だからと、与えられたボランティアにいそしむ。シフトも作業内容も他人が決めてくれる代わりにそれ以上の責任もない。あたえられたことだけをこなし、自分でものを考えない人が有利な就職ってどんな仕事だろう。そこに、なにか大人の嘘があるとは思わないのだろうか。


大学も地域貢献と称して、成績や単位を餌に街におおっぴらに学生たちを送り込む。この大人と若者による負の共犯関係が、これまでにないほど状況をおかしくしている。しかし残念ながら両者ともにあまりその自覚はない。その方が楽だからそれでいいのだろう。


うちの大学も数年前からそんなことを始め、北九州の街の人たちに悪い癖をつけてしまった。今や若者は何をしでかすかわからない不敵な存在ではなく、「学生」という名の、なんでもいうことをきく素直で便利なお手伝いさんに成り下がってしまった。


山の上で茶を点てて飲もうなどという風狂の趣向におおいに賛同し、自分たちもそれを越える遊びに興じようではないかという同好の志は、互いの対等な尊敬がなければ決して成り立たない世界である。若者を軽くあつかう大人たちも、志を持つ若者たちの方から、一緒にやれる相手かどうかを瞬時にして見抜かれてしまっている。少し前までは、そんなかっこ悪いことはなかったのにと思うと、かえすがえすも残念である。


今となっては、なんの打算もなくそんな風狂を楽しむことは、もうかえってむつかしいかもしれない。それほどこの共犯関係は強固に現在の私たちを縛っている。