2015年2月21日土曜日

ヘリポートと高江・暴力と非暴力(やんばる旅その8)

沖縄から戻って10日もたっていないのに、連日のように高江や辺野古で起きているひどい事件。あの日の報告を書く前に、現実の方がどんどん進行し、成り行きが気になり、つい筆が止まってしまう。


遠くにいるとなかなか解らないかもしれない。むろん沖縄に住んでいても知らないことは多いと思う。その場にいき、そこに泊まり、そこにいる人たちと話をすることで、報道や映像からはなかなか見えてこない、ふつうの人たちの日常と「あたりまえ」の思いを感じた。


高江の人たちも辺野古の人たちも、そこに集まっている人たちは、みな穏やかでとても親切な人ばかりだ。そして平和的で、心から暴力を嫌う人たちだ。報道映像はいつもセンセーショナルなシーンを好んで取り上げたがる。


今、この文章を読んでいる人にも、それぞれいろいろな主義主張はあると思うけれど、非難したり怖がったりする前に、実際に会ってみれば良いと思う。そこに泊まることもできるし、語ることもできる。恐ろしそうな事件ばかりが報道されるが、実際には長い長いあたりまえの日常がある。


基地の歴史も現状もほとんど何も知らないまま、そこにやってきたわたしたちは、いわば野次馬のようなものかもしれない。しかもこんな大変なときに・・・。でも、そんなときだからこそ自分の目で見ること、多くの人の目で目撃することも大切なのではないかと思う。


では書こう。


奥から東海岸を南に下る。冬の季節風が吹く西海岸に比べると東海岸は明るい。山もなだらかで西部よりも広々としている。そのうちのかなりの面積を米軍の北部訓練場が占めている。総面積約78.33平方キロメートル、といわれてもぴんとこない。那覇市の面積のおよそ2倍だ。

楚洲をすぎ安波のタナガーグムイ(テナガエビの滝壺)で休憩、那覇から来たメンバーと合流するため「ヤンバル学びの森」に立ち寄る、食事を終えてデッキから遙か遠くの与那覇岳の方を見ていると、おじさんが話しかけてきた。やんばるの森にとても詳しい。北部訓練場の中も歩くらしい。謎のおじさんだ。

これから高江に行くと告げると、このすぐ奥の道路沿いにもヘリパットがあると教えてくれた。北部訓練場の森の中にはすでにたくさんのヘリパットが作られている。そのヘリパットのうちの6つを高江の集落を取り囲むように移転する、これが高江のヘリパット建設問題である。高江を訪ねる前に実際のヘリパットを見ておこうと思い、車を走らせた。


「ヤンバル学びの森」からわ3分くらい北上した道沿いに、森が開かれたヘリパットがあった。中を歩くと、英語で書かれた携帯食のパッケージが捨てられていた。


ボーイスカウトたちはこの森の中でキャンプでもしているのだろうか、いやちがう、ゲリラ戦の訓練である、つまり人殺しの練習である。そして練習台のターゲットが高江の住民。まるで冗談のような話だが、まったく冗談ではない。


実際にベトナム戦争の時代には、住民にベトナム人の格好をさせ演習を行っている。かれらアメリカーにしてみれば、沖縄もベトナムも変わりはしない。そしてもちろん日本も同じだ。何を話しているのかぜんぜん言葉も通じないし、なぜこんなところに住んでいるかもわからない。ちょっと友好的な顔すれば言うことを聞く、それでだめなら脅せば、基本的になんでもOKの黄色人種の原住民だと思っているのだろう。


そこから南下するとほどなく高江につく。N1ゲートのテントでひととおりの説明を受け、夕食の買い出しに高江の共同売店にいくと、伊佐さんにあう。「前にどこかでお会いましたね」といわれた。申し訳ないことに私はすっかり忘れていたが、向こうは覚えていてくれた。5年前の2010年9月に大學堂で、高江の方々を招いて「たかたんゆんたく」をしている。その時に伊波さんは、森岡さん比嘉さんとともに三人で小倉を訪ねてくれたのだ。


辺野古と連動して高江でもいろいろな動きがあり、ゲート前の監視を続けている。私たちはテントを持っていたので、邪魔にならないようにN1ゲートの横にでもはろうと思っていたのが、「トタン家に泊まったら」といわれた。各地から高江を見にやってくる人たちが集まる家だ。結果的にはいろいろな人と話ができてその方がよかった。

おかげで、日米安保について研究するためやってきた、スウェーデン・ストックホルム大学のカーネル・マティアスさんにもあうことができた。

夜は自然発生的に宴会になり、目取真俊をよく知る人と、彼の作品「虹の鳥」について語り合うこともできた。目取真俊はとてもすきな作家であるが、「虹の鳥」はとても嫌な作品である。才能のある作家が嫌なモノについて徹底的に書くと、それがどんなに嫌なモノになるのか、そんな話をした。

アポイントも何もなく、こんな大変なときに、いきなり10人もの大人数で訪ねてきた私たちを、高江の人たちは暖かく迎えてくれた。私たちは、ほとんどなんの役にも立たないけれど、すくなくともそれぞれが考えたことを人に伝える事はできる。


夕方、爆音を立て威圧するように戦闘ヘリコプターが何度も村のまわりで低い旋回をくりかえした。見たこともないとがった機体。「かっこいい?」いいや「こわい」。それが人を殺すための道具であることを、自分に銃口を向けられたときにはじめて気づく。


恐怖の前に人は保守的になる、権力への忠誠は臆病の裏返しだ。そして、保守的な人間はそうでない人間よりも基本的に脅しや暴力に弱い。だから、恐怖や脅しで人を支配しようとする。でも、それは卑怯なやり方ではないのか?


反対をしている人はどこかからお金をもらってやっているという、うんざりするほどおきまりの中傷がある。実際にところ、これが中傷になるのかどうかすらわからない。しかし、この手の批判はとんでもなく的外れな上に、中傷だと思っている人々の美意識がどこにあるのかがわかり、言説自体が興味深い。


例えばなにかを主張するために、全国の支援者や共感する団体から、お金を集めて何が悪いのだろうか。仕事で主張してはいけない。主張するならボランティアでしなさいということだろうか。実際には反対している人には、日常生活があり、家庭があり、その地域での暮らしがある。反対は仕事ではない。こんな圧倒的に不利な状態の中で、非暴力こそを武器に決めて、異議申し立てをする村人たちに、祝島であった人たちと共通する、強さと誠実さを感じた。

そして皮肉なことに、お金をもらってやっているのは米軍や警察、海上保安庁、そして警備会社である。税金を使い、多額のお金を使って意見を押さえ込もうとしている。お金をもらって仕事で嫌がらせをする。

嫌がらせのためだけに、根拠のない裁判をくりかえし(スタッグ訴訟)、税金を無駄遣いする。これはポリティカルハラスメントだ。再び問うが、それは卑怯なやり方ではないのか?


誠実な異議申し立てに対して中傷をする人たちは、一方で卑怯なことが最も嫌いな美意識を持つ人たちでもあるはずだ。その心をもって、自分の目で、何が起きているのか、はっきりと見るとよいと思う。


翌日、昼前に高江を辞し、辺野古に向かった。拠点は浜からゲート前に移っていた。そこには国家が等身大の姿で可視化されていた。むき出しの国家が立っていた。帰りの飛行機の便がある私は、そこから北九州に戻り、学生たちは一晩、辺野古に泊まった。